第38話 夜のおそれ・混乱・葛藤
――どれほど時間が経ったのだろうか。
森の浅瀬にいたはずのヴェゼルの寝ていた場所は自宅の布団に変わっていた。
まぶたが、わずかに震え、ゆっくりと開く。
視界に飛び込んできたのは、心配そうに覗き込む母オデッセイの顔だった。
温かな腕に抱かれていると気づいた瞬間、胸の奥に押し込めていた恐怖が一気にあふれ出した。
「……かあ、さん……ぼく……」 掠れた声は、涙に濡れていた。
オデッセイは黙って息子の額を撫でる。言葉を待つように。
ヴェゼルの瞳が揺れる。
「ぼく……オークの心臓を……」
小さな手が震えた。あの瞬間の、箱に吸い込まれていった感触が、まだ掌に残っている気がする。
「ぼく……人も……同じように……殺せるんだよね……」
震える声。恐怖と嫌悪と、罪悪感に押し潰されそうになりながら、彼は必死に母を見つめた。
「そんなの……ぼく……こわい……こわいよ……!」
嗚咽がこぼれ、オデッセイの胸に顔を埋める。
母の衣を濡らしながら、泣いた。
オデッセイは強く抱きしめ、背を優しく叩いた。
「大丈夫。ヴェゼルは人を殺すために、この力を授かったんじゃないわ」
彼女の声は静かで、それでいて芯の通った響きだった。
「今日だって、あなたがいなければ、私もアビーも……誰かが犠牲になっていたかもしれない。あなたは人を守るために戦ったの」
ヴェゼルは涙の中で首を振る。
「でも……でも……こわいよ……。ぼく……」
オデッセイはその頭を胸に抱き込み、囁いた。
「怖くていいの。人を殺すことを怖いと思える子だから、あなたは人を守れるのよ」
その言葉は、少年の心に少しずつ染み込んでいった。
嗚咽はまだ止まらなかったが、母の温もりにすがるように眠りへと落ちていった。
ヴェゼルは夢の中で、さっきの出来事を思い返していた。
――あの力……自分に与えられた力は、人を殺せるものだ。
幼い手で、オークの心臓を奪った光景が、焼き付いていた。
あの瞬間の恐怖と嫌悪、嗚咽と失神。
「怖い……こんな力、持ちたくなかった……」
そんな小さな呟きに、久々にオヤジ脳が反応した。
「おいおい、ヴェゼルくんよ。泣き言言うんじゃないよ。俺だって55年生きてきたけど、人生なんて不条理だらけだったぞ。泣いても始まらん! まぁ、俺もあんな化け物と対峙したことはないけどな!」
「でも……怖いよ……」
ヴェゼルは小さく顔を伏せる。
「分かってるさ。でもな、守りたいものがあるなら、泣いて縮こまってる場合じゃないんだよ」
オヤジは身振り手振りで大げさに話す。
「この世界、外に出れば魔物も盗賊も跋扈してるし、孤児もごろごろいる。命の価値は、平等じゃないんだ。守るべきものを守るには、時にビシッと切り捨てる勇気も必要なんだよ!」
ヴェゼルは手の中の木箱を握りしめる。
「……守るためには、怖くてもやらなきゃいけないんだね」
「その通り! うん、いいぞ その言い方! でも覚えとけ、坊主。怖いって思うのは当然だ。きっと俺だって怖いよ。恐怖がないなら、ちょっとアホすぎるからな! ま、お前の親父のフリードは、まぁ、うん、な?」
オヤジ脳がは笑ったようにみえた。そして小さく拳を握る。
胸の奥に、昨夜芽生えた覚悟が再び熱を帯びる。
――自分や家族、愛する人を守るためなら、どんな困難も恐れず立ち向かう。
時には力を使い、人を傷つけることも避けられないかもしれない。
しかし、それでも構わない。
本当に守りたいものは、何としてでも守ろう――
「うん、分かった、オヤジ脳?……僕、自分の守りたい物を守る!」
ヴェゼルの声は小さいが、確かな決意が込められていた。
オヤジ脳は軽く手を叩き、満足そうに笑った。
「よしよし、頼もしいじゃないか。さてと、これで寝る前の説教は終わりだ。あとは夢の中で積み木でもやって寝ろ! あと、俺の名前はオヤジ脳じゃないからな! それと、もう、二度と俺が出るようなことはよしてくれよ!」
小さな木箱を握りしめ、ヴェゼルは森の静寂の中で、恐ろしくも希望に満ちた力と覚悟を胸に、眠りについた。
アレの突っ込みと説教のおかげで、ヴェゼルの心にはしっかりと光が灯ったのだった。
朝靄が森を包み、柔らかな光が小屋の窓から差し込む。
ヴェゼルはまだ眠気を引きずりながら、布団の中で手の中の木箱を握った。
「おはよう、ヴェゼル」
オデッセイの声は穏やかで、けれど胸の奥に強い覚悟が込められている。
「……おはよう、母さん」
ヴェゼルは小さく答える。昨日の夜、アレとのやり取りで芽生えた覚悟が、まだ胸に温かく残っていた。
オデッセイは息子の肩に手を置き、優しく見つめる。
「昨夜は、ずいぶん考えたようね」
ヴェゼルはうなずき、木箱をぎゅっと握った。
「うん……怖いけど、守るためにはやらないといけないって、分かった」
オデッセイは小さく息を吐き、瞳を潤ませる。
「……こんな小さな子に、重い業を背負わせてしまったわね」
声は震えていた。母としての後悔と痛みが混ざる。
しかし、その手は優しく、確かな力で息子の肩を抱く。
「でも、あなたが覚悟を持っているなら、きっと守れるわ。怖くても立ち向かうことを選べるのは、あなたの強さよ」
ヴェゼルは目を伏せ、胸の奥で決意を再確認する。
――自分や家族、愛する人を守るためには、時には力を使わなければならない。恐怖や罪悪感に押し潰されず、決意を貫く。
オデッセイは微笑み、そっと頬を撫でた。
「怖がっていいの。泣いてもいい。でも、守る覚悟を忘れないで」
ヴェゼルは小さく息を整え、木箱に手を置きながら頷く。
「うん……守る。絶対に、守るんだ」
朝の柔らかな光の中、森の静寂が包む小屋で、母と子の心は確かに重なり合った。
ヴェゼルが決意を胸に頷くと、部屋の隅からちょこちょこと小さな影が動いた。
「ぶーぶー!」
アクティが木箱の周りを這い回り、指で箱をつつく。
「ねえねえ、おにーさま! これであそぼ!」
まだ言葉はぎこちないが、元気いっぱいに訴えてくる。
ヴェゼルは思わず吹き出した。
「アクティ……これは積み木じゃないんだぞ……」
オヤジ脳の意識も、ここぞとばかりに口を挟む。
「ほら見ろ、坊主。世界がどんなに怖くても、こいつらの笑顔を守るんだ。ま、2歳児に叱られるくらいなら、ちょっと笑ってもいいってことだ」
オデッセイも笑みをこぼす。
「そうね。重い話をしても、日常はこうして戻ってくるのよ」
アクティは箱の角に手をぶつけてひと泣きするが、すぐに笑顔でヴェゼルに駆け寄る。
「ねえ、おにーさま、あそぼ!」
ヴェゼルは木箱を抱き上げ、優しく妹の手に差し出す。
「よし、ちょっとだけな。壊さないで遊べよ」
朝の光の中、森の小屋には、決意を胸にした兄と、無邪気な妹の笑い声が混ざり合った。
恐ろしい力と覚悟の重さを抱えつつも、家族の日常は少しずつ戻りつつある――そう実感できる瞬間だった。




