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りんご一個分の収納。マジでどう使えと!? 〜辺境騎士爵に転生したので、なんとか無難な人生を…歩みたいなぁ〜  作者: 大童好嬉


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第38話 夜のおそれ・混乱・葛藤

森の浅瀬に横たわっていたはずの身体は、いつの間にか自宅の寝台へと戻されていた。見慣れた天井。柔らかな布団の感触。それらが現実であることを、まぶたがゆっくりと開いてから、少し遅れて理解する。


視界に映ったのは、すぐそばで覗き込む母――オデッセイの顔だった。眉をわずかに寄せ、安堵と心配が混じった眼差しで、彼を見下ろしている。


その腕に抱かれているのだと気づいた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出した。


「……かあ、さん……僕……」


声は掠れ、喉の奥が熱を帯びる。涙が滲み、視界が歪んだ。


オデッセイは何も言わず、ただ額を撫でる。急かさず、否定もせず、言葉が出てくるのを待つように。


ヴェゼルは、唇を噛みしめた。


「僕……オークの……心臓を……」


小さな手が、無意識に握りしめられる。あの感触。箱に吸い込まれていった重みと、生々しい存在感。それが、まだ掌に残っている気がした。


――殺した。


そう理解する理性が、遅れて追いつく。子供の心は恐怖に悲鳴を上げ、大人だった頃の意識は、静かに凍りついていた。


前の世界で、彼は人間に近い生物を殺したことなどあるわけもなかった。人を殺すことは、概念として知っているだけの、遠い出来事だった。それが今、自分の手の届く場所にある――その事実が、何よりも恐ろしかった。


「僕……人も……同じように……殺せるんだよね……」


声が震える。問いかけは、母に向けたものでもあり、自分自身への確認でもあった。


恐怖。嫌悪。罪悪感。そして、逃げ場のない現実。


「そんなの……僕……」


言葉が続かない。


「……こわい……こわいよ……!」


嗚咽が零れ、ヴェゼルはオデッセイの胸に顔を埋めた。理屈も、思考も、すべて崩れて、ただ泣いた。子供として泣き、大人の感覚で、その重さを噛みしめながら。


オデッセイは、ためらいなく強く抱きしめる。背を撫で、一定のリズムで叩き、逃げ場を与えるように。


「大丈夫よ」


静かで、揺るぎない声。


「ヴェゼルは、人を殺すために、この力を授かったんじゃない」


その言葉は、感情ではなく、確信として響いた。


「今日だって、あなたがいなければ、私もアビーも……誰かが命を落としていたかもしれない。あなたは、守るために戦ったのよ」


ヴェゼルは、涙に濡れたまま首を振る。


「でも……でも……」


怖い。できてしまうことが。選べてしまうことが。


オデッセイは、その小さな頭を胸に引き寄せ、囁く。


「怖くていいの」


一拍、間を置いて。


「人を殺せる力を、怖いと思えるヴェゼルだから――あなたは、人を守れることができるのよ」


その言葉は、子供の心に染み込み、同時に、かつて大人だった意識にも届いた。力を持つことよりも、それを恐れる心の方が、人である証なのだと。


嗚咽はすぐには止まらなかった。だが、母の温もりに包まれながら、ヴェゼルは少しずつ力を失い、やがて深い眠りへと落ちていく。


恐怖も、後悔も、まだ消えない。


それでも――この夜だけは、守られて眠ることが許されていた。




ヴェゼルは、浅い眠りの底で、何度も同じ光景をなぞっていた。


――あの力。


――自分に与えられた力は、人を殺せる。


幼い手で、オークの心臓を奪った瞬間が、何度も脳裏に浮かぶ。箱に吸い込まれていく重み。命が、確かに消えたという実感。


胸の奥がひやりと冷え、同時に吐き気のような嫌悪が込み上げる。


「……怖い……」


夢の中の自分は、まだ小さく、布団の中で丸まっている。その呟きに、誰かが答えた気がした。


いや――誰か、ではない。自分の奥から、ずっと昔の、落ち着いた声が滲み出てくる。


――怖くて当然だ。


直接言葉として響くわけではない。ただ、考えが整理されるように、思考の流れが変わる。


――五十年以上生きてきたが、不条理じゃない出来事なんて、ほとんどなかった。


――力を持つかどうかは選べなくても、どう使うかは選べる。


夢の中で、ヴェゼルは顔を伏せたまま、胸の奥に問いかける。


「……でも……こんな力……持ちたくなかった……」


返ってきたのは、慰めではなかった。


――分かる。だが、守りたいものがあるなら、立ち止まっている暇はない。


――外には魔物がいて、盗賊がいて、理不尽に奪われる命がある。


――命の価値は、残念ながら平等じゃない。


それは説教というより、事実の列挙だった。


かつて大人だった自分が、感情を抑えて現実だけを並べている。ヴェゼルは、夢の中で、無意識に小さな木箱を握りしめていた。


「……守るためなら……怖くても……?」


――そうだ。


――怖いままでいい。怖いと思えるなら、お前はまだ壊れていない。




――恐怖がない力なんて、ただの暴力だ。胸の奥で、何かが静かに熱を帯びる。それは高揚でも興奮でもない。逃げ場を探すのをやめた、静かな覚悟。


――自分と、家族と、大切な人を守るためなら。


――時には、踏み込まなければならない場面もある。ヴェゼルは、夢の中で、ゆっくりとうなずいた。


「……うん……」


声は小さい。それでも、逃げる震えではなかった。


「……僕、自分の守りたいものを……守る」


その言葉を最後に、胸の奥の声は、すっと遠ざかっていく。誰かの説教が終わった、という感覚だけが残る。


――あとは、ちゃんと眠れ。


そんな気配を残して。次の瞬間、世界は静かに溶けた。




朝靄が森を包み、柔らかな光が小屋の窓から差し込む。


ヴェゼルはまだ眠気を引きずりながら、布団の中で手の中の木箱を握った。


「おはよう、ヴェゼル」


オデッセイの声は穏やかで、けれど胸の奥に強い覚悟が込められている。


「……おはよう、母さん」


ヴェゼルは小さく答える。昨日の夜、アレとのやり取りで芽生えた覚悟が、まだ胸に温かく残っていた。


オデッセイは息子の肩に手を置き、優しく見つめる。


「昨夜は、ずいぶん考えたようね」


ヴェゼルはうなずき、木箱をぎゅっと握った。


「うん……怖いけど、守るためにはやらないといけないって、分かった」


オデッセイは小さく息を吐き、瞳を潤ませる。


「……こんな小さな子に、重い業を背負わせてしまったわね」


声は震えていた。母としての後悔と痛みが混ざる。しかし、その手は優しく、確かな力で息子の肩を抱く。


「でも、あなたが覚悟を持っているなら、きっと守れるわ。怖くても立ち向かうことを選べるのは、あなたの強さよ」


ヴェゼルは目を伏せ、胸の奥で決意を再確認する。


――自分や家族、愛する人を守るためには、時には力を使わなければならない。恐怖や罪悪感に押し潰されず、決意を貫く。


オデッセイは微笑み、そっと頬を撫でた。


「怖がっていいの。泣いてもいい。でも、守る覚悟を忘れないで」


ヴェゼルは小さく息を整え、木箱に手を置きながら頷く。


「うん……守る。絶対に、守るんだ」


朝の柔らかな光の中、森の静寂が包む小屋で、母と子の心は確かに重なり合った。




ヴェゼルが胸の奥に残る決意を確かめるように、静かに頷いた、そのときだった。部屋の隅で、何かがちょこちょこと動く気配がする。


「ぶーぶー!」


次の瞬間、木箱の周りをよじよじと這い回る小さな影が現れた。アクティだった。短い腕を伸ばして箱を指でつつき、満足そうに鼻を鳴らす。


「ねえねえ、おにーさま! これであそぼ!」


まだ言葉は拙いが、声だけはやけに力強い。


その必死さに、ヴェゼルは思わず息を漏らし、くすりと笑ってしまった。


「アクティ……これは積み木じゃないんだぞ……」


そう言いながらも、先ほどまで胸を締めつけていた重さが、ほんの少しだけ和らいでいることに気づく。


――世界がどれほど理不尽でも、怖くても。


――こういうものを守るためなら、笑う余裕くらいは、あっていい。


それは誰かの声というより、先ほどの夢の続きを、自分自身が噛みしめている感覚だった。


オデッセイも、その様子を見て柔らかく微笑む。


「そうね。どんなに重たい話をしても、日常はちゃんと戻ってくるものよ」


その言葉が終わる前に、アクティは箱の角に手をぶつけ、「うぇえ」と一声泣いた。


だが、ほんの数瞬後には涙を引っ込め、今度はヴェゼルの足元へとよちよち駆け寄ってくる。


「ねえ! おにーさま! あそぼ!」


切り替えの早さに、ヴェゼルは完全に苦笑した。木箱を抱き上げ、妹の小さな手にそっと触れさせる。


「……よし。ちょっとだけね。壊さないで遊ぼうね」


アクティは意味を理解したかどうかも怪しいまま、嬉しそうに頷いた。


朝の光が差し込む森の小屋に、兄の低い笑い声と、妹の無邪気な声が混ざり合う。恐ろしい力と、その使い方を考え続ける覚悟は、確かにヴェゼルの中にある。


だが同時に――こうして守るべき日常も、すぐそばにあるのだと。


それを思い出させるには、アクティの一声だけで、十分だった。

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