第37話 婚約者と森を散策 (グロいシーンがあります。注意してください)
初冬を迎えようとする森は、なぜか優しい匂いで満ちていた。
これから冬の厳しさを迎えようとするのに、木漏れ日が柔らかに揺れている。
その森のふちを、二人の若者が並んで歩いていた。
ヴェゼルとアビー。
婚約が正式に決まってまだ間もない二人は、互いにどこかぎこちない。それでも、今日は「森の浅瀬まで散策しよう」と誘い合い、こうして並んでいる。
「森に来るのは、はじめてかもしれないわ」
アビーが言い、浅瀬に足を止める。小川がきらきらと光を反射し、彼女の白い指先を撫でるように流れていた。
ヴェゼルは頷きながら、手元の箱に触れる。
――母オデッセイとともに試した“収納の箱”。まだ使い慣れていないが、常に身近に置くよう言われていた。
「水、冷たくて気持ちいいかしら……」
アビーは裾を少し持ち上げ、しゃがみこんで水に触れようとする。陽光を反射して、彼女の頬は春の花のように明るい。
その微笑みに、ヴェゼルの心はざわついた。婚約者――。
けれどまだ“友”とも“伴侶”とも違う、距離感の中にいる。そうして、二人だけの時間は、ほんの一瞬のことだった。
低い唸りが、風を切って響いた。
「……っ?」
アビーが顔を上げ、ヴェゼルの背筋が凍りつく。
茂みを押し分け、姿を現したのは――黒緑の巨体。猪にも似た鼻面、鋭い牙。筋肉に覆われた腕は人の二倍はあろうかという太さ。
オーク。
本来なら森の奥深くに縄張りを持つはずの魔物が、なぜこんな森の浅瀬に。ヴェゼルの脳裏に、オデッセイの言葉が蘇る。
――「オークと遭遇したなら、迷わず逃げなさい。大人の騎士でも数人でやっと討てる相手なのだから」
「……に、逃げよう!」
ヴェゼルが声を絞り出す。だがオークの黄色い目はすでに二人を捕らえ、獲物を狩る本能に燃えていた。
アビーは咄嗟に杖を握りしめた。心臓が喉から飛び出しそうなほどの鼓動の中で、彼女は詠唱を行使して声を張り上げる。
「ウォーターミスト!」
水の噴霧で視界が奪われた。
オークが目の前の霧に咆哮をあげ、腕を振り回す。
水の噴霧は一瞬、獣の動きを止めることに成功した。だが、その効果は長くは続かない。
「今のうちに――!」
ヴェゼルはアビーの手を掴んで走り出そうとする。だが、その瞬間、オークが再び目を見開き、獰猛な唸りとともにこちらを睥睨しながらゆっくりと進んできた。
巨体が迫る。
アビーの手を握る指先から汗が噴き出す。
「っ……!」
頭の中が真っ白になる中、ヴェゼルの手が箱に触れた。
――そうだ。収納。
もし、これを……使えれば……!
巨体が向かってくる。
地響きのような足音が胸を叩き、視界が揺れる。ヴェゼルの頭の中に、母オデッセイと試した訓練がよぎった。
「構成物質を思い描きなさい。木なら木。鉄なら鉄。それを認識すれば収納は安定する」
だが、いま目の前にいるのは生きた魔物。しかも自分を殺そうと迫る相手。
心臓が喉を突き破りそうだった。
脳裏に浮かんだのは、オークの分厚い胸板の奥に脈打つ――心臓。
それを奪えば……止まる。動かなくなる。
「……心臓はほとんど筋肉のはずだ。他に血液、脂肪……」
かすれた声で呟く。震える指が、木の箱を前に突き出した。
瞬間、箱の口が黒く開いた。
オークが振り上げた棍棒のような腕。その動きが止まる。
オークの胸部に、わずかに窪みが走った。
――次の刹那。
「……ガッ」
オークの喉から、声ともつかぬ濁音が漏れた。
その巨体がぐらりと揺れる。黄色い瞳が大きく見開かれ、血走った眼球が震える。
胸を押さえた瞬間、全身から力が抜け、巨体は前のめりに崩れ落ちた。泥が跳ね上がり、浅瀬の水を濁らせる。
――あまりにも唐突で、あまりにも呆気ない。
あの恐るべきオークが、ほんの数呼吸のうちに命を落としたのだ。
ヴェゼルの手にある木箱は、重くなっていた。
恐る恐る覗き込むと――そこには赤黒い塊。
まだ温かさを残した肉片が、脈動するように痙攣していた。
心臓の一部。血で濡れた断面。
――収納されたのは、確かにオークの命そのものだった。
「……っっ……!」
胃の奥から熱いものがこみ上げ、ヴェゼルは膝を折った。
「う、うああああっ……!」
嗚咽とともに、喉を突き上げる吐き気。胃の中身を吐き散らし、泥に手をつきながら嘔吐を繰り返す。
目に焼き付いた心臓の映像が離れない。生臭い幻覚が鼻腔を覆う。
「ヴェゼル!」
アビーが慌てて駆け寄り、背をさすろうとするが、ヴェゼルは振り払うように身を丸めた。
「……殺した……俺が……」
自分の声が、誰のものかも分からないほど震えていた。
次の瞬間、世界が遠ざかり、視界がぐらりと傾いた。
全身の力が抜け、そのまま泥の上に崩れ落ちる。
浅瀬には、オークの死骸と、泥に倒れ伏した少年、そしてその横で必死に叫ぶ少女の姿だけが残されていた。
アビーは震える声で叫んだ。
「誰か! 助けて! 誰か――!」
浅瀬に響くのは、少女の必死な声だけだった。
「お願い、誰か……ヴェゼルが……!」
アビーは泥に伏した婚約者を抱きかかえ、震える手でその顔を拭う。ヴェゼルの唇は青ざめ、呼吸は浅く速い。
先ほどまでの壮絶な吐き気で、全身が虚脱しきっていた。その時、森の奥から複数の駆ける音が迫った。
「アビー! ヴェゼル!」
甲冑が枝を薙ぎ払い、剣を携えた影が現れる。
先頭を走るのはフリード。領主家をこの不帰の森から守ってきた武人だ。その後ろにバーグマン、さらにグロムと数名の騎士が続く。
そして最後に、裾を乱しながらも急ぎ駆け寄るオデッセイの姿があった。
バーグマンが飛び込み、まずオークの死骸を確認する。
「……信じられん。なんでこんな森の浅場にオークが、これを……子供達だけで倒したのか?」
目を覆うような巨体。
戦場の経験豊かな彼でも、オーク一体を仕留めるには数人の連携が必要だった。だが目の前のそれは、もの言わず沈黙している。ほぼ外傷などなく。
フリードも言葉を失ったまま剣を構え、慎重に近寄る。
「とても……討伐の形跡とは思えんな。傷がない……胸を押さえたまま……まるで、内側から……」
騎士たちがざわめきながら後退する。その視線の先にあったのは、泥に横たわる少年と、彼の手に握られた木箱だった。
「ヴェゼル!」
オデッセイが駆け寄り、膝をついて息子の体を抱き寄せる。衣服に吐瀉物と泥がついても構わない。ただ必死に頬を撫で、その細い肩を揺すった。
「大丈夫、大丈夫よ……母さんがいるから……」
だがヴェゼルは虚ろな意識のまま、かすれ声で呟く。
「……殺した……俺が……」
その言葉に、オデッセイの胸が締め付けられる。
母として息子を抱きしめたい想いと、領主家の者としてその力の意味を理解しなければならない責務。その二つが胸の内でせめぎ合った。
バーグマンが静かに近づき、低く告げる。
「オークは……ヴェゼル殿が討ったのか?」
アビーが涙で濡れた顔を上げ、必死に答えた。
「水の魔法では一瞬しか止められなかった……でもヴェゼルが、箱を……その箱を突き出して……オークが……」
騎士たちの視線が木箱に集まる。
その小さな箱の口から、赤黒い滴が垂れていた。覗き込んだ者は息を呑み、顔を背ける。そこには、確かにオークの心臓の一部が収められていたのだ。
「……っ、まさか。心臓を……」
フリードが声を震わせる。
「収納とは、ただ物を仕舞う術ではなかったのか……?」
オデッセイは唇を固く結び、息子を抱きしめながら低く言った。
「そうよ……この子は、“命”そのものを奪ったの」
静寂が浅瀬を支配した。
ただ水音と、ヴェゼルの浅い呼吸だけが響く。騎士たちは畏怖を込めて少年を見つめた。
小さな体に秘められた力――それは領主家の守り神となりうるが、同時に制御を誤れば最も恐ろしい脅威ともなり得る。
フリードが口を開こうとしたが、言葉は続かなかった。彼の眼差しにも、驚きが混じっていた。
その空気を断ち切ったのは、やはりバーグマンの低く太い声だった。
「よいか。ここで起こったことは……他言無用とする」
フリードや騎士たちが一斉に顔を上げる。老練な騎士の瞳は鋼のように光り、声には揺るぎがなかった。
「この約を違えた者は、ヴェクスター男爵家への背信とみなし、このバーグマンの剣に従って処する。……異論はあるまいな」
騎士たちは息を呑み、次々に頭を垂れた。
「はっ……!」
浅瀬に、誓約の響きが重々しく落ちる。
オデッセイは黙って息子を抱きしめたまま、バーグマンに一瞬だけ視線を送った。
その眼差しには、言葉にせぬ感謝と、領主家を背負う覚悟とが入り混じっていた。
「大丈夫よ、ヴェゼル。あなたは悪くない。恐れなくていい。母さんが必ず……導くから」
その声は自分に言い聞かせるようでもあった。
この力を隠すべきか、育てるべきか――領主家の未来を左右する決断が、いずれ迫ることを彼女は悟っていた。
夕陽が森を赤く染める中、浅瀬にはまだ倒れたオークの亡骸と、母に抱かれた少年の姿があった。
その光景は、居合わせたすべての者の胸に刻まれた。
――収納。
それは、生活をちょっとだけ便利にする術であると同時に、命をも瞬時に奪う恐るべき力。
ヴェゼルの運命は、この日を境に大きく変わり始めていた。




