第36話 その夜
その夜、領館はいつもより穏やかな空気に包まれていた。長い一日を終えて暖炉の前でくつろいでいた。アビーとバーグマンは、今日は宿泊を予定しており、子どもたちも含めて、夕食の席はにぎやかそのものだった。護衛騎士たちはカムリの家で歓待を受けているのだろう。
「いやあ、この領の農産物は豊かになったな。甘味の生産も始まると言う事だし、未来が楽しみで仕方ない」
バーグマンが柔らかく笑いながら杯を傾ける。
フリードも負けじと酒を重ねつつ、「お前も、毎回訪問してくれて感謝する」と照れくさそうに返す。
オデッセイはその光景を微笑みながら眺め、焚き火の揺らめきが反射する瞳は、輝いていた。
子どもたちはすでに就寝し、静かになった館内で、バーグマンはしずしずと話を切り出した。
「あのな、アビー宛に婚約の申し込みは多いのだが、わしはすべて断っておる」
オデッセイは軽く眉をひそめつつも、興味深そうにバーグマンを見つめる。
「そう……あなたが、あえて断っているのですね」
バーグマンは頷き、柔らかな声で続けた。
「わかるだろう?あの子とヴェゼルのために、な。二人の未来を考えれば、彼らの絆を壊すようなことは避けねばならん。わしが余計な婚約を受けるなど、論外じゃ」
その言葉に、オデッセイの胸は熱くなった。
目の前にいるのは、ただ単に子どもの保護者として振舞うだけでなく、静かに、しかし確固たる意志で二人の未来を守ろうとしている男の姿だった。
「……もしよければ、早々に婚約を進めてもよろしいですか?」
オデッセイは静かに問いかける。
バーグマンは微笑んで頷いた。「ああ、異存はない。彼らが互いに幸せであること、それが何よりじゃ」
暖炉の前、オデッセイはふと口を開いた。
「……本来、アビーならもっと良い嫁ぎ先があったでしょうに。こんな、まだ発展途上の貧乏騎士爵でなくても」
その言葉に、バーグマンはにやりと笑った。
「ふむ……そういう輩もおるだろうな。だが、わしが言いたいのは違う。周囲がどうこう言うのは勝手だが、初代から連なる騎士家に嫁げるというのは、武門の誉であり、誇りじゃ」
オデッセイはしばし言葉を失った。確かに、騎士爵家の伝統や血統を重んじる視点からすれば、ヴェゼルの家は決して見劣りするものではない。
しかし、現実的な財政状況や領地の規模から見ると、オデッセイの母性本能はつい心配してしまうのだ。
バーグマンは続けた。「わしの目から見ても、この家で幸せに暮らせると判断したからこそ、申し込みを断っておったのじゃ」
フリードはただ頷くしかなかった。言われたことの意味は完全には理解できないが、雰囲気で「そうそう」と肯定する。
バーグマンの大人の説得力とオデッセイの母性の板挟みを、彼なりに察したのだろう。
オデッセイはしばらく黙って、暖炉の炎を見つめる。心の奥でヴェゼルとアビーの幸福を強く願いながらも、バーグマンの言葉に救われる思いだった。
「……なるほど。そうですね。誇りある家の一員として、ヴェゼルはアビーを守っていくのですね」
バーグマンは笑いながら杯を掲げた。「その通りじゃ、娘をこの家の一員として、ヴェゼルと共に支えてやってくれ」
オデッセイは静かに頷く。フリードもその横で、相変わらず何もわからず頷いているが、酒と暖炉の柔らかな光に包まれた夜は、どこか特別な温かさを帯びていた。
翌朝、領館の大広間に一同が集まった。フリードが堂々と立ち上がり、朗々と発表する。
「ヴェゼルとアビーの婚約が正式に決定した!」
ヴェゼルは瞬間、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにほころんだ笑顔に変わる。
アビーも頬を赤らめ、明るく喜びの声を上げた。
アクティは飛び跳ねながら「おねえさんができる!」と大喜び。
館内はたちまち祝福の空気に包まれた。
「よかったね……」オデッセイはヴェゼルの肩にそっと手を置き、穏やかに微笑む。
二人は午後の庭を散歩することになった。柔らかな日差しが草木を照らし、風が軽やかに吹き抜ける。アビーは少し名残惜しそうに、ヴェゼルの隣で歩いた。
「ヴェゼル、あらためて、よろしくお願いします」
その声に、ヴェゼルの胸は再び高鳴る。久々にオヤジ心が、胸の奥でわずかに顔を覗かせる。しかし、前回の経験を活かし、ぎりぎりの理性で押さえ込む。心の中では熱い感情が渦巻いているが、笑顔を絶やさず、アビーの手をそっと握り返す。
「こちらこそ、よろしく」
ヴェゼルの声は自然に、そして少し震えていた。
「毎日、文通しようね!」アビーが元気よく言う。
「……えっと、それは、一月に一度で許してもらえませんか」ヴェゼルはやや照れながらも、理性と現実を重視して答える。アビーは少し残念そうにするが、やがてにっこりと笑った。
その日、領館には新たな希望と、これからの未来を祝福する柔らかな光が差し込んだ。
家族の笑い声と子どもたちの歓声が、館内に静かに響き渡る。
ヴェゼルもアビーも、それぞれの胸に暖かな思いを抱き、幸せな日々の始まりを確信していた。




