第327話 襲撃01
風の妖精ジルフと竜狼種ネクロウィンドルフ、そしてグールの群れが迫りつつあった夜。
最初にその異変を感じ取ったのは、やはりサクラだった。静寂に包まれた寝室の中、彼女はふと目を開く。灯りは消え、月も雲に隠れた夜。だが、闇の奥でざらつくような気配が微かに蠢いていた。
肌を撫でる風が、まるで冷たい手のように這う。胸の奥がざわめき、心臓が不穏な鼓動を打つ。サクラは小さく息を呑み、寝台の上で体を起こした。隣ではヴェゼルが静かに眠っている。その安らかな寝息が、かえって異変の気配を際立たせた。
サクラは唇を噛み、彼の袖をそっと引いた。
「……ねぇ、ヴェゼル……」
掠れた声。けれど、それには切迫した響きがあった。
「なんか……嫌な気配がするの。ざわついてるの。……あれは、妖精? それと……前にいた、あの怖い狼たち……?」
白い指がぎゅっと彼の服を掴み小さく震えていた。
ヴェゼルはすぐに目を開け、眠気を一瞬で振り払った。その瞳は、夜の中でも鋭く光を帯びる。
「……サクラ、一緒においで」
短く告げ、彼は上衣を羽織り、無言で部屋を出た。廊下は月明かりを拒むように暗く、冷気が肌を刺した。靴音が響くたび、空気が張り詰めていく。
フリードとオデッセイの寝室の前で立ち止まり、ヴェゼルは軽く三度ノックした。衣擦れの音、そして息を呑むような静寂の後――
「ちょ、ちょっと待て!」焦りを含んだ父の声。ほどなくして扉がわずかに開いた。
現れたのは、頬を赤らめたフリードと、髪を乱したままのオデッセイ。その空気に、ヴェゼルは一歩も引かず、淡々と頭を下げた。
「お楽しみのところ、申し訳ありません」
凍るような沈黙。二人の顔が同時に赤くなり、フリードが言葉を詰まらせる。だがヴェゼルの表情には、いつもの皮肉めいた笑みもない。
その静けさが、ただ事ではないことを告げていた。
「……どうした?」父が声を低める。
ヴェゼルは短く息を吸い、淡々と答えた。
「サクラが嫌な気配を感じると言っています。おそらく――魔物の気配。そして、精霊……あるいは妖精の可能性も」
その声音に、子どもらしい怯えも戸惑いもなかった。あるのは、戦を予感した者の冷徹な確信。
一瞬、廊下を流れた空気が凍りつく。フリードとオデッセイの視線が交わり、すぐに覚悟の色を帯びた。そして、夜は静かに、その均衡を失い始めていた。
その頃、防壁の上ではガゼールが早くも異常を察知していた。いつもなら夜風が木々を揺らし、枝葉の擦れる音が絶えず響くはずだった。
だが今夜は――何も聞こえない。森が沈黙している。梟の声も、風の囁きさえも止んでいた。
静寂は、音が消えたことよりも、音を恐れて潜んでいるかのように、不気味な重みを持っていた。
「……これは、何かが動いているな」
長年この森を見続けてきたガゼールの直感が、背筋を冷たく撫でる。彼は周囲を見渡し、すぐに同僚の従者を呼びつけた。
「伝令を出せ。領館へ――“森が息を潜めすぎている、何かが蠢いている可能性あり。”と伝えろ」
その声には、経験に裏打ちされた鋭さがあった。伝令が夜霧を裂くように走り去るころ、領館の応接間ではヴェゼルたちが集まっていた。
緊張の静けさを破るように、廊下の向こうから急な足音が響く。カムリが息を切らせて駆け込んだ。
「フリード様、防壁より伝令でございます! ガゼールが申すには、森が不自然に静まり返っていると! 何かが蠢いておる気配があるとのことです!」
その言葉に場が凍りつく。すぐに、グロムとエスパーダが寝巻き姿のまま廊下に姿を現した。オデッセイも上着を羽織りながら応接間へ入ってくる。
グロムは窓辺へ歩み寄り、外の闇を覗き込んだ。
「……たしかに、まるで息を潜めているような静けさだな。風さえ止まっている」
低く呟く声に、全員の心臓がわずかに跳ねた。
その直後、窓の隙間から冷気が一気に吹き込む。ヴェゼルがそれを感じ取り、無意識に拳を握る。フリードは短く息を吐き、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
「防壁を確かめてくる。オデッセイ、後は任せたぞ」
グロムがすぐに頷く。「俺も行こう。戦の匂いがする。途中で村長や自警団にも声をかける」
二人は無駄な言葉を交わさず、素早く外套を羽織ると、夜気の中へ飛び出した。風が切り裂かれる音が響き、扉が閉じると同時に館の空気が張り詰める。
目覚めたばかりの従者や侍女たちが、次々と応接間に集まってきた。
オデッセイは静かに深呼吸をし、声を整える。その声音には、恐れよりも理性と威厳があった。
「カムリとトレノは村へ走って。村長と顔役たちにあらためて危険を伝えなさい。村人たちには家の扉を厳重に閉ざすように。そしてもしも鐘が鳴ったら、この領館へ避難するよう伝えて」
「コンテッサは防壁の様子を確認して、そのまま村長へ報告。終えたら館に戻って、備えを」
「アトン、セリカ、カムシンは館内の全員を応接間に集めて。カテラはとりあえずアクティを連れてきて」
「ヴェゼル、あなたは正面以外の防壁の状況を見てきて。状況を見極めて、その後の判断は任せます」
「サクラちゃんは、私のそばから離れないように。……ヴェゼルを一緒に待ちましょう、ね?」
サクラは小さく頷き、唇を噛んだ。
その表情には怯えよりも、何かを感じ取るような鋭さがあった。
「エスパーダさん、あなたは私のそばに。情報を共有して、意見具申してください」
指示は迅速で、的確だった。誰もが黙って動き始める。
廊下の向こうからは、プレセアとソニアが薄衣のまま現れた。
顔を見合わせ、声を潜めて話す。「……どうしたの? まさか、また襲撃?」「グールたちかもしれないわ」
オデッセイはすぐに振り向き、落ち着いた声で応じた。
「今夜は、そういう日のようですね。でも安心なさい。ここはビック領です」
その言葉には、領主夫人としての覚悟と誇りが滲んでいた。
「お二人もすぐに着替えて。万が一の応戦の備えをお願いします」そう言い終えると、オデッセイは全員を見渡した。
「客も従者も下働きも、全員――応接間に集合を。その後に点呼をします」
十分後、館の大広間には人々が集っていた。
アクティはセリカの腕に抱かれ、カムシンは幼い手でカテラの指を強く握る。
アトンは胸の前で手を組み、目を伏せて祈るように息を整えていた。
オデッセイは一同を見渡し、静かに口を開く。
「敵が襲ってきた場合、この館の防衛は私とエスパーダさんが指揮します。プレセアさん、ソニアさんも加勢を」
その声は夜気を切り裂くように凛として響いた。
誰もが無言で頷き、息を殺す。
やがて、遠くで風が鳴る。
嵐の前の静けさが、館全体を包み込んでいた。




