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第326話 ジルフとネクロウィンドルフ

――森の境を抜けた瞬間、風が一気に軽くなった。

雪を孕んだ霧が薄れ、遠くにビック領の稜線が淡く浮かぶ。空気は冷たいが、教国の瘴気が薄まることで、むしろ肌に優しくさえ感じられた。


ジルフは細い指で髪を払うと、光を帯びた羽根を微かに震わせる。風の流れが頬を撫で、まるで道を示すようにひと筋の気配を描いていった。

「……この辺りだな。風が“妖精”の匂いを運んできているようだ」

囁く声は幼げで、しかしどこか底冷えするほど無感情だった。


後方で、ネクロウィンドルフが低く唸る。黒い骨翼を震わせながら、踏み出すたびに地面が軋んだ。

人の土地に近いこの場所では、彼の存在はあまりに目立ちすぎる。

「静かにしていろ。貴様の腐臭は森の死より濃いのだ。……クルセイダーどもは正門の裏から村へ潜ませろ。風に紛れるのは我だけでよい」

吐き捨てるような声。しかしその瞳の奥には、焦燥が揺れていた。


風の精霊の命には逆らえぬ――それが己の宿命であることは分かっている。だが、その命に従うたび、胸を締めつけるのは忠誠ではなく、別のものなのだ。それが恐怖か、それとも、吐き気を催すほどの嫌悪かは分からない。

ジルフは、己の手を見下ろし、風に消えるような声で呟いた。


闇の妖精――その“名”を持つ存在に果たして敵対しても良いのか。答えはとうに出ていた。否だ。だが、風の精霊の命令は自分の存在からは絶対であり、ジルフに選択などの自由はない。


その名を語ることすら闇の妖精は禁忌とされている。別名「国堕とし」と呼ばれ、古き時代より精霊と妖精の間で密やかに語り継がれてきた。闇が歩むところ、国は沈み信仰は腐る。ゆえに、闇の名は風にも運ばれぬ。――ただ、恐怖だけが残るのだ。


そこへ、先行していたクルセイダーの一人が戻り、息を詰めながら報告をする。

「ビック領……ホーネット村にて、異質な反応がありました。弱いながらも精霊のような揺らぎを感知」

ジルフは短く頷き、視線をネクロウィンドルフに向けた。

「聞いたな。行け!」

ネクロウィンドルフは静かに頭を垂れた。その瞳孔の奥に、わずかな懐疑が滲んだ。


ネクロウィンドルフは知っていた――あの村の少年を。あの日、グールの群れを率いていたとき、森の奥で戦いがはじまった。


二人の人間の女が、グールどもに囲まれていた。どうやら一匹のグールが女にちょっかいを出したらしい。弱者が蹂躙されるのは常のこと、そう思っていた。だが――その女たちは意外なほど粘った。その粘りが、群れの闘争本能を刺激した。止める間もなく、死者どもの戦意は炎と化す。


ネクロウィンドルフは興味を持たなかった。それを遠くから見下ろしていただけだ。せいぜい数匹の犠牲で済むだろう、そう考えた刹那、空気が変わった。女の逃げた方向、霧の向こう――そこに子供がいたのだ。


人間の少年――。だが、その背後に漂う“気配は、人のそれではなかった。ネクロウィンドルフは、氷原の向こうに立つその少年を見た瞬間、思考が止まった。


雪を踏みしめる音も、風を裂く唸りもすべてが遠のく。少年は地に膝をつき、片手を静かに大地へ添えた。囁くような声が聞こえたかと思うと、その響きが大気を震わせた。


紅の塵が舞い上がる。炎ではない。血のように濃く、光のように儚い粒子が群れの上空で渦を巻いた。雪に触れた瞬間、それは爆ぜ、白煙となって空を裂き、音もなく世界を呑み込む。


――世界が、一瞬だけ静寂に包まれた。そして風が逆巻き、地が揺れ空を裂く閃光が走る。白霧の中、グールたちの咆哮が断ち切られ、影ごと霧散した。


わずか一息の間に、グールの軍勢が跡形もなく消えた。ネクロウィンドルフの瞳が細まり、思考が凍りつく。闇の魔力を帯びながら、風の流れすら従えている――この世の理ではない。


精霊の力でも、妖精の術でもなく、“存在そのもの”が危険だった。人間がの為せる技ではない。使ってよい力ではない。いや、そもそも“人間”の領域にいるべき存在ではない。


冷たい戦慄が背を走る。“関わってはならぬ。あれは禁忌だ。”そう悟りながらも、胸を締め付けるのは、別の恐怖だった。


――ジルフの命令。それは、風の精霊の名を冠する者の絶対の命令。


自らの“創造主”の言葉を拒むことなど、できるはずがない。

「……あれは、我らが触れてはならぬものだ……!」叫びは声にならず、風の中に溶けた。


再び吹いた風は、自由ではなく鎖のように冷たかった。背後で命を告げる気配を感じながら、ネクロウィンドルフは悟る。


――自分は“滅びに従うための存在”なのだと。その夜、風はただ死の方角へと流れていった。



夜の平原。ネクロウィンドルフの背中に立ち、ジルフはホーネット村の方角を睨む。


ネクロウィンドルフが静かに膝を折り、重厚な黒い影を風に溶かすように佇んでいた。口は利かず呻きもせず、ただジルフの命令に従うのみ。その瞳に宿る光は冷たくもあり、同時に諦念に満ちている。かつては風狼ハウルヴァンとして自由にこの世界を駆けていたが、死の淵でジルフに受肉され、今の亡骸――ネクロウィンドルフとして存在する。安穏など一度もなく、従僕としての役目を背負い続けてきた。


ジルフは宝珠を受け取ると、掌に載せる。碧い光が周囲に揺らめき、微細な旋回が生命を帯びたかのように脈打つ。宝珠を通して、周囲の風や精霊、妖精の気配を読み取ることができる。

「……スピラの珠よ、囁け。霊種の所在を示せ」

声に応じ、宝珠は光を強め、夜空を裂くように東へと細い風の道筋を描いた。光の筋が揺れるたび、周囲の空気がかすかにざわめき、遠くの村の灯をほのかに照らす。


ジルフはその光を見つめ、わずかに笑みを浮かべた。

「闇の妖精……聖の精霊様も風の精霊様もが、恐れる存在か。……一度、この目で確かめてみる価値はありそうだ」


焚き火がぱちりと弾ける音が静寂を破る。冷たい夜風が肌を刺すが、ジルフの胸中には別の熱が宿る。恐怖か、好奇心か、それとも狂気か――その答えは風だけが知っていた。


背後のネクロウィンドルフは、従僕として動き、グールの群れを統率する。口は利かずとも、その存在がもたらす圧迫感は凄まじく、平原の空気を震わせる。ジルフはその黒い影に向けて軽く指を鳴らし、行動の指示を送る。命令に従い、闇の妖精のいる村へ向かう準備が整った。


――夜は深く、村に吹く風には、嵐の前の静けさのような不吉さが混じっていた。ジルフの小さな身体が羽根を震わせるたび、風はその意思を運び、ホーネット村へと災いの兆しを運ぶ。





どういう文章が読みやすいのか。。

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