第325話 風の精霊の蠢動
いまから遡ること数数間ほど前。
トランザルプ神聖教国の最奥――聖域の右の部屋、幾重にも封じられた風の守護精霊の間は、息をするだけで身を切られるような冷気に満ちていた。
青白い光柱が天井から落ち、淡く揺れる霞が床の紋様の上を流れていく。空気そのものが震えている。
その中心に座していたのは、風の精霊。
人の形をとりながらも、その肌には風そのものの透明さが宿り、髪は無重力の糸のように宙を漂っている。
唇に微笑を浮かべるが、それは人に対する優しさではなく、秩序の上から見下ろす冷笑に近かった。
彼女の前には、小さな影が一つ――掌に乗るほどの背丈の風の『妖精ジルフ』。
性別の概念さえ希薄な存在でありながら、その瞳には荒ぶる光が宿っている。背に浮かぶ羽根はガラスのように光を反射していた。
「……呼び出しに応じました、我が主。風の乱れは北より。南へ向けて帝国の空を越えて渦を巻いております」
頭を垂れるジルフの声は低く、湿り気のない乾いた音を響かせた。
風の精霊は指先で軽く風を巻き上げた。室内に渦が生まれ、瞬く間に光の粒子が流れる。
それが一つの幻影を形づくる――地図のように浮かび上がるのは帝国の辺境、ビック領の一角だった。
「……バルカン帝国のビック領、ちょうどこの不帰の森を越えた辺境ホーネット村。そこの領主の嫡男。名は……ヴェゼルと言ったかしら。その者に闇の妖精は取り憑いているそうよ。そこの妖精の出来損ないを捕らえてきなさい。あるいは、それが叶わぬなら……消してしまってもかまわないわ。あれは“闇”そのものではない。ただの紛い物」
「闇、ですか」
ジルフは眉根を寄せる。風と闇は、古くから相容れぬ属性だったと聞く。空を支配する風にとって、闇は流れを停滞させる不浄な存在でしかない。
「ええ。けれど――その“闇”は、本物ではないわ。闇そのものではなく、“闇の妖精のようなもの”。しかも、まだ不安定で、意思を持つには早すぎた。そもそもあのような者が『国堕とし』のわけがないわ。だが、もしそれが本当だとしたら……この大陸の均衡が崩れる…」
風の精霊は微笑を深くした。
「――あれは“意思”の残滓。闇の系譜を僭称する、出来損ない。だが秩序を乱す芽は、摘んでおかねばならない。あなたが行きなさい、ジルフ」
その声には、慈悲も情もなかった。ただ絶対的な風の法則が告げるような静謐さがあった。
ジルフの小さな肩が一瞬だけ震えた。妖精は精霊の下僕。逆らうことなど本能的にできない。けれど、心のどこかで微かな迷いが芽生える。
――争うために顕現したわけではないのにな。
それでも彼は膝をついたまま、静かに頭を下げた。
「命を……承ります。風は、南へ向かえと囁いていますので。時は、満ちたのでしょう」
その額に刻まれた緑の紋章が淡く光り、風の音が一瞬だけ止んだ。フリュメリアの瞳が細くなる。
「よろしい。行きなさい、我が僕。風は常にお前を見ているわ」
「……御心のままに」
その言葉を最後に、ジルフの姿は一陣の風と共に消えた。
ジルフが次に姿を現したのは、聖域を離れた教国の外れだった。
そこから先は、帝国領へと続く荒野。風は冷たく乾き、砂に似た雪が頬を叩く。
ジルフは巻物を広げ、風に煽られぬよう片手で押さえながら、眉を寄せた。
「……通常の道なら三ヶ月以上か。人間どもは本当に遅い生き物だな」
地図に記された長い街道は、点在する補給都市を繋ぐ一本の線。しかし、ジルフが辿るのはその線ではない。
風が導く先は、“不帰の森”――瘴気と魔物に覆われ、精霊たちですら避ける禁断の領域。だが、最短の風脈はそこを貫いていた。問題はただひとつ。森の支配者たちを、どう従えるかである。
ジルフは白い指をひとつ弾いた。
瞬間、地の底から吹き上がるような風とともに、黒い影が姿を現す。
骨の翼を持つ竜狼種――ネクロウィンドルフ。その肉体は腐敗し、体表には幾重もの呪紋が刻まれている。空気がひび割れるような音を立て、獣は膝を折った。
「遅いぞ。風を読めぬのか、お前は」声は冷え切っていた。
ネクロウィンドルフは喉の奥で呻くような声を漏らし、低く頭を垂れる。
「……相変わらず臭いな。それ以上近寄るな、汚れる。いいか、お前は私たちを先導しろ。不帰の森を越え、バルカン帝国のビック領――ホーネット村をとりあえずは探れ。風の精霊様の御命令だ。そこにヴェゼルという小僧がいる。その脇に“闇の妖精”がいるはずだ。捕らえろ。最悪、殺しても構わぬ。邪魔なものはすべて排除せよ」
命を告げるたび、風が鋭く鳴った。ネクロウィンドルフは咆哮を上げ、森の彼方へと響かせる。
その声を聞いた魔物たちは、一斉に逃げ出し、瘴気の海がざわめいた。
その背後には、十名のクルセイダーが並んでいた。彼らは信仰で縛られた戦士たち。外見は“冒険者”として偽装されている。
鎧の上には旅装束をまとい、腰にはそれぞれ聖印が消された剣がある。だが、その眼差しは硬く、恐怖を押し殺すように沈黙していた。
ジルフは羽を震わせ、氷混じりの風を巻き起こす。
「遅れるなよ。風は常に先を行く。止まる者は、取り残される」
「了解いたしました、ジルフ様……」
先頭のクルセイダーが答えるも、その声には不安が滲んでいた。ジルフはふんと鼻を鳴らした。
「人の匂いはどうにも鼻につくな。……お前ら死ぬなよ、できるだけな…ふふっ」
そう吐き捨てて、彼はネクロウィンドルフの体を軽く蹴るように叩いた。
「おい、貴様。もう少しマシに歩けないのか。何のためにこの森を案内させていると思っている。……まったく、なぜこの私が、こんな寒くて臭い獣と歩かねばならんのだ」
ネクロウィンドルフは低く唸り声を上げるが、抵抗はしない。
「貴様の不満そうな顔も腹が立つな。精霊様の命とはいえ、私は風の妖精だぞ。もっと高く、美しく、自由であるべきなのに。……この有様では、お前らのように泥を這う虫と変わらぬではないか」
吐息が白く散る。彼の背後では、グールの群れが雪を蹴立てながらついてくる。彼らが通るたびに、森の瘴気がざわめき、闇が後ろへ逃げる。
ジルフはその光景を見ながら、冷たく笑った。
「まあいい。闇の妖精とやらを捕らえれば、精霊様の御心も満たされよう。風が再び、私を高みに戻すのだ。そのときこそ――」
雪混じりの風が彼の言葉をさらう。
その風はやがて、帝国の片隅――ホーネット村へ。
何も知らぬ人々の暮らす小さな村へ、冷たい災厄を運び始めていた。




