第323話 領館に帰ってきて
そのあと、ヴェゼルとフリードとオデッセイ、エスパーダだけが残った。三人の視線を受けながら、ヴェゼルは改めて深く頭を下げた。
「突然、ヴェクスター領に行ってすいませんでした」
フリードは余計な詮索をせず、短く問う。「問題はなかったか?」
「はい。アビーには自分の気持ちを正直に話してきました。わかってもらえたと思います。たぶん、前より絆は深まりました」
「そうか」それ以上、踏み込まない。フリードはいつもそうだった。
オデッセイは、ほんの少し柔らかく笑う。「あなたも、まだちゃんと子供だったのね。安心したわ」
ヴェゼルは視線をそらし、小さく息を詰まらせる。
そして本題が来る。
プレセアとソニアは、どんな経緯で同行になったのか、人として信用できるのか。
ヴェゼルは簡潔にもう一度説明した。サクラと出会ったあの森で休憩していたところ、二人はグール約50頭とネクロウィンドルフに追われていた、と。あれは故意にできることではない。偶然に遭遇したのだと付け加える。
フリードの表情が一瞬で硬くなり、少し言葉が重くなる。「ネクロウィンドルフか。あれは……よく生きていたな」
オデッセイも視線を伏せ、記憶の奥からゆっくりと引き上げるように言葉を落とした。
「あれは、本当に人間が正面から勝てる相手じゃないわ。私も、あれを正面から見たとき、体が凍った。別の魔物が割り込んでくれなかったら、あの場で終わっていたわ」
昔、二人が冒険者だった頃に一度だけ相対した“死の影”だった。
ヴェゼルはそこで、アビーと一緒に行った水蒸気爆発の応用で群れを殲滅したと報告した。
オデッセイの指先がぴくりと跳ねた。「水蒸気で? ……どうやって?」
声が、研究者のそれに変わる。
「水が一瞬で蒸気になると体積が急に膨張します。1000倍以上に膨張するんです。その圧力で爆発が起きるんです。それを利用して群れを殲滅しました」
フリードが苦笑しながら言う。「オデッセイ、研究の話は後にしたらどうだ?」
「元研究者の血が疼くわね。これは研究しない理由がないわよ」オデッセイはそのままぐっと前に出る。
「いや、落ち着けって。後回しだ後回し」フリードが強引に手を止める。
ヴェゼルは続けた。「念のため、あの時の水蒸気爆発はプレセアさんとソニアさんには口止めをお願いしてあります」
フリードは頷く。「それは良い判断だ」
そして、そのまま眼差しを少し細める。情報を扱う者の判断の角度になる。
「……二人は、ただの旅人じゃないよな?」
オデッセイもそこに自然と乗る。この夫婦は、立ち位置が違うのに同じ結論に着地する精度が高い。
「育ち、装備品や服、身のこなし、それと物腰。普通の商人の娘じゃないわね」
ヴェゼルはこのあと、二人、特にプレセアについて、自分が感じた直感を話すことにする。ここから先は、敵味方の判断ではなく精度を求められる時間に移っていった。
ヴェゼルは、雪原での彼女らの動きと、会話の端々からの違和感を、父と母へ共有していた。プレセア本人は商人の娘と言っていた。しかし、剣の腕前、情報への嗅覚、そして、フォルツァからの到着の早さ。それらを積み重ねた時に、一介の娘の旅とは到底思えない。
「ただ、密偵とか暗殺者とかそういう人ではないと思います。質問の仕方が違いました。興味で質問してくるような感じでした」
それはヴェゼルの結論であった。
怪訝な顔をするフリードとオデッセイ。その時、胸ポケットから影がひゅっと伸び、机にチョコンと立つ。サクラは腕を上に伸ばし、背をそらし一伸びする。
「寒かったし、知らない人がいたから話せなかったし。途中でクッキーもなくなるし。今回は……つまらなかった!!」
室内が一瞬だけ止まり、そのあと全員が苦笑する。
そこで、静かにエスパーダが口を開く。寡黙な男の声音は淡々としていたが、確信の温度だけがあった。
「フォルツァ商業連合国は、商業が最優先。次に大事にするのは情報。特に、戦争や騒乱関連です。争いごとは金になる。あの襲撃事件からフォルツァまで情報が伝わり、それを事前に拾い判断してここまで移動し決行できるだけの素早さを持っていた——あまりにも行動が早すぎます。この点だけでも、ただの商人ではないと思います」
オデッセイがゆるく頷いた。
「そうね。私の実家も商人だったからわかるけれど、娘に商売を教えず剣を叩き込むなんて、よほど馬鹿な親か、よほど裕福な家のどちらかよ。で……あの子は、馬鹿な家の育ちには見えないわね」
フリードは、ぽかんと口を開けてから嬉しそうに言う。
「つまり俺の領は、フォルツァの中枢にいるような家からも注目されるほどになったという事だな!」
とひとりだけ浮上いた発言をする。オデッセイがゆっくり額を押さえる。
「……そこだけ切り出して喜ぶ感性は一体どこから来るのよ」
エスパーダはその会話が聞こえなかったかのように淡々と続ける。
「フォルツァの評議委員の関係者の娘か孫……それくらいの立場の可能性もあります。あの移動判断の速さと、情報精度はそういう層の特権でしょうからね」
静かに室内の空気は締まっていく。だが、オデッセイはあえて少し息を抜くように口元だけで笑う。
「でも、あの子の根っこは真っ直ぐそうよ。商売を仕掛ける時の悪い眼をしていなかったわね」そう告げるのだった。
ヴェゼルは静かに頷いた。
「だから、現状は危険度は低いと思います。ただ……サクラは、まだ姿を見せない方がいいかもしれません。前提条件も説明もないまま見せると、余計な誤解を生むだけだから」
そう言った途端、サクラがぴょんと飛び、ヴェゼルの肩に降り立った。そして胸を張る。
「わたしは誤解してもらってもいいよ? ちょっと混乱してほしいくらい。というか、どうでもいいの。ヴェゼルがそばにいて、お菓子を食べれれば私はそれでいいのよね!」
「……そういうところが駄目なんだよ」
ヴェゼルは額を押さえた。エスパーダは、そんな二人を見て、息を吐くように口角を上げる。
「闇の精霊は“悪”でも“善”でもない、中立の存在なのです。だから扱いが難しい。中立という立場は理屈では成立しても、現実では維持できない。人は常に分類したがる。“敵”か“味方”か。善か悪か。それは人間のみならず、神と呼ばれる存在でさえ、どちらかに寄せたがる。だからこそ闇は余計に、居場所を奪われるのですよ」
サクラはエスパーダを指差して言う。「難しいんだってば! このサクラちゃんは、分からないわよ!」
「だからこそ、プレセアさん達にも“まだ”サクラちゃんは見せない方がいいと私は思うわ。きっと、あの子達もこちらを測ろうとしてる段階でしょうからね」
オデッセイはカップを静かに置く。
フリードは腕を組みながらも、緩んだ笑みを崩さなかった。
「それにしても……うちの領って、もうそういう他国の相手とやりとりする位置にいるんだなぁ。なんというか……不思議な誇らしさがあるぞ」
「なんで父さんだけ、完全に部外者みたいな雰囲気で話すんですか?」
「いや、俺は領主だぞ! な!……オデッセイ……な?」
「その自覚が軽そうに見えるんですよね……」
ふっと、笑いが生まれる。数時間前までの殺伐とした気配は、暖炉の火と湯気と声色に溶けていた。
「とりあえず、こちら側でも整理しておきましょう。あの二人は“商人”の枠で扱うと、多分、読み違えそうだわ」オデッセイが言い、エスパーダも頷く。
「うむ。なら、そうしよう」フリードも同意した。
そしてサクラはヴェゼルの髪をむにっと掴んで宣言した。
「明日は絶対クッキー大量生産の日よ!」
フリードは堪えきれず吹いた。
「それは……いい提案だ」




