第322話 ホーネット村に帰郷
まだ日も高い冬の午後、視界の白さがようやく開け、ホーネット村の屋根と、小屋の影が見えた頃、ヴェゼルは安堵する。
雪化粧した屋根の曲線は、辺境の村とは思えぬほど整っていて、入り口に佇む防壁と高い門は、旅人を寄せつけるというより、本来はここを守る強固な意志だけを静かに提示しているように見える。プレセアは息を呑み、ソニアは無言のまま視線だけを上げて、雪に焼きつけられた線を追いかけていった。
「すごい……こんなにしっかりしてるのね」
プレセアが思わず漏らした声は、冷たい空気にすっと消えていった。ソニアは返さない。ただ、ほんの少しだけ表情が固くなる、そのわずかな変化だけが、彼女の驚きの全てだった。
門前には、いつものガゼールが立っていた。冬でも変わらず元気な声で、彼は雪を蹴って駆け寄ってくる。
「あれ? ヴェゼル様?!」
ヴェゼルは頷き、荷台からひらりと飛び降りると、息を整えて言葉を返す。
「ヴェクスター男爵領から戻りました。帰りはバーグマンさんの兵士に馬橇を出してもらったんだ。御者はキャブスターさん。それと、こちらの女性二人はフォルツァ商業連合国から来た旅人のプレセアさんと護衛のソニアさん。身元は俺が保証するから安心して」
ガゼールは笑みのまま黙って頷き、門を押し開ける。雪の白に引かれた影は、ただ領民としての信頼だけを示していた。
「キャブスターさんは今日は一泊して、明日ヴェクスター領へ戻るんですよね。ぜひ我が家に泊まって、温まっていってください」
「ありがとうございます。お世話になります」キャブスターは丁寧に応じ、馬橇を領館へと向ける準備に移った。
ヴェゼルは、プレセアとソニアを振り返る。「お二人も、領館に泊まっていきますか?」
プレセアは、肩についていた雪を払い小さく笑う。「では、お言葉に甘えます。ありがとう!」
ソニアも無言で頷き、同意を示した。必要以上の言葉はないが、拒絶もない。
馬橇は雪道を滑り、領館に着くと、執事のカムリが慌ててフリードたちに知らせに走る。すぐにフリード、オデッセイ、ルークス、エスパーダ、アトン、アクティが揃う。グロムとコンテッサは警邏中らしく、姿は見えなかった。カムリがキャブスターを厩舎と馬橇を停める倉庫に案内していく。
ヴェゼルは、森での経緯を簡単に説明した。
「帰りはバーグマンさんの馬橇で送ってもらいました。御者はキャブスターさんです。それと、フォルツァ商業連合国から来たプレセアさんと護衛のソニアさんを森で助けて、ここまで案内しました。二人はホーネット村の噂を聞いて来たそうなんだ」
フリードは、ヴェゼルの最後まで待たずに、腕を広げるように笑い声をあげる。言葉より先に歓迎だけを先出しした。
「ようこそ! ビック領へ! 今日は泊まっていくといい!」
プレセアとソニアは丁寧に名を名乗り、「ぜひ、お願いします」と答えた。オデッセイは「遠路お疲れ様ですね」と応接間へ案内を促す。
そのとき、アクティがヴェゼルの袖を引っ張り、目だけをぎゅっと向ける。
「こんどはどっちが、おにーさまのこんやくしゃになるの?」
プレセアは一瞬静止し、そして眉間をひそめ、小声で呟いた。「……やっぱりスケコマシって、本当なの?」
ヴェゼルは慌てて否定しようとするが、ソニアは無言で荷物を解き、エスパーダは全てを聞こえなかったかのように、しかし肩が微妙に小刻みに揺れながら背を向けて歩いた。冬の静けさは、変に間を長くして、空気の温度を少しだけ下げた。
応接間に移ると、雪で冷えた体がじわりとほどけてゆくような暖が満ちていた。カムリはキャブスターにお風呂と食事の準備を指示し、侍女に客間を整えさせる。キャブスターは深く頭を下げてから静かに休みに向かい、部屋はヴェゼルと、プレセア、ソニア、そしてフリード・オデッセイら数名だけになる。
プレセアとソニアは改めて姿勢を整え、正式な場の挨拶に移った。旅塵を纏ったままにも関わらず、所作は洗練され、剣と商いを両立する国の民としての礼節がそこにはあった。
「フォルツァ商業連合国から参りました、プレセアと申します」
ソニアも続き、無駄のない声で言う。「プレセア殿の護衛を務め、剣も教えております。ソニアと申します」
フリードは、豪快な笑顔のまま、しかし領主としての矜持だけは崩さずにゆったりと応える。
「この領の領主、フリードだ。こちらは妻のオデッセイ。そして、彼がエスパーダ。ヴェゼルの側近をしてもらっている」
オデッセイは、視線を柔らかくプレセアへと移しながら、少しだけ探るような気配を漂わせた。プレセアは一瞬だけ気圧されるが、逃げずに返す表情はあるようだ。
フリードはふと、率直な疑問をそのまま言葉に乗せた。
「では聞こう。なぜフォルツァという遠くの地から、それもこんな季節にわざわざここへ来たのかな?」
プレセアは、待ってましたと言わんばかりに息を吸い、そのまま一息で語りきる。
「フォルツァでは最近、帝国から入り始めた新製品が広く売られています。ホーネットシロップ、そろばん、知育玩具、ウマイモ、そして冒険者や商人必携の燻製肉。その全てを開発したのがビック領と聞きました。剣の修行を重ねていたソニアさんと、そろそろ旅に出る頃合いを話していた時に、クルセイダーとそちらのヴェゼルさん一行が襲撃された…けれど、クルセイダーが全滅したという噂を聞きました。ならば行って自分の目で見てくるべきだろう、と。それで冬でも旅に出る決心をしました」
フリードは豪快に笑い声を上げる。「我が領の名が異国にまで届いているとは、誇らしいことだな!」
しかしオデッセイは静かに続ける。
「名が広まれば、余計な者まで引き寄せられるということでもあるけれどね」
その視線はプレセアの顔に僅かに触れた。プレセアは苦笑いで返すしかない。
その場にセリカが戻り、恭しく告げる。
「お風呂とお部屋の準備が整いました。プレセア様、ソニア様、どうぞご案内いたします」
プレセアとソニアは一礼し、応接間をあとにする。ヴェゼルはその背を目で追いながら、胸の奥に小さな波紋だけを残した。冬は深く、しかし来訪者の意味はまだ測り切れないままに夜へ向けて静かに進む。




