第321話 そして帰る05
雪原を蹴りながら馬橇は滑り出した。戦場の名残がまだ足元に残る中、橇の中の三人は奇妙な緊張と安心が入り混じった空気に包まれていた。
結局一番体の小さいヴェゼルが、狭い馬橇で二人の膝の上を交互に座らされることになった。
最初はプレセアの膝の上だ。抱っこされる形とはいえ、ヴェゼルにとっては、見上げる彼女の表情の緊張も相まって、少し照れるほどの密着感だった。
セプターは鼻を鳴らして吹きかける。男が女の膝かとでも言うように、わずかに尻尾を振った。キャブスターは見なかったことにしたらしく、黙って手綱を握る。
雪を蹴る馬橇の振動が、狭い車内に微妙な揺れをもたらす。ヴェゼルはプレセアの膝の上で背中を預けている。手袋を外したプレセアの指先が髪や頬に触れるたび、ちょっとぞくぞくした感覚を覚えた。
「徒歩より楽だわね……この冬の旅は大変だったし。本当に助かったわ。ホーネット村までに途中野宿を覚悟してたもの」
プレセアは言いながら、ヴェゼルの髪をくしゃりと撫でる。
「ねぇ、ソニアさんもそう思うでしょ?」ソニアは無言で軽く頷くだけ。淡い微笑すら浮かべず冷静な態度だ。
「荷物も多いし、夜は寒いし、魔物もいるし……でも、あなたは元気で良いわね。子供だからか暖かいし、これは天然の保温具ね」
プレセアは髪を撫でながら顔を近づけ、笑みを浮かべる。
「それに髪もサラサラで……ほっぺもつやつや……冬なのに不思議なほど。いいなぁ、若いって」
ヴェゼルはその子供扱いに、少しムッとして皮肉を混ぜる。
「プレセアさんといると俺も暖かいです。背中も平坦でちょうど良い硬さだから座り心地は抜群ですよ」
「口の達者な子ね」プレセアは軽く頭を叩いた。
橇が雪を蹴るたびに二人はわずかに揺れるが、密着する暖かさにヴェゼルの頬はちょっとだけ紅潮する。ソニアは無言のまま何事もないかのように淡々としている。
「あなたっていろいろな噂があるわよね。どれが本当なの?」プレセアは目を輝かせて訊く。
ヴェゼルは肩をすくめて答える。「どんな噂ですか?」
「確か、あなたと話すと必ず女性は老若男女魅了されるとか……婚約者も五、六人いるんでしょう?」
ヴェゼルは苦い顔になる。「老若男女って、そんなことあるわけないじゃないですか。それに婚約者は今は二人です」
「鬼謀童子は本当? スケコマシのほかには……あと、あなたの魔法、ハズレ収納魔法だって言われてたけど、さっきのも収納魔法なの?」
「鬼謀童子は偶然優秀な部下が戦っていた現場にいただけですし、スケコマシは全く思い当たりません。魔法もハズレで合ってますよ。教会の人にも哀れな視線を向けられましたから」
すると、プレセアはヴェゼルの横顔をじっと観察するように視線を滑らせた。揺れるソリの上、風で髪が少し乱れても、その目線は変わらなかった。
「ねぇ?じゃあ、クルセイダー三百人をあなた達だけで殲滅したっていうのは本当?」
ヴェゼルは一瞬だけ逡巡する。視線を前へ投げ、積み重なった雪道と、遠くにのびる村への道筋を眺める。真実は言えない。それをプレセアに今、ここで全てを明かす必要も義務もない。まだ。彼女が何者かも分からない状況で、彼女が「どこまで踏み込む人なのか」を知らないのだから。
「それは……あちらのクルセイダーの何かが暴発したようで、勝手に自滅したようですよ。今でも自分たちがなぜ襲われたのかすらも、分からない状況ですからね」
ヴェゼルは淡々と、そして淡白に返す。あえて薄く、平静を保つために。
プレセアはその答えの温度と、言葉の精度を計るように、数拍の無音を置いた。そして、肩をほんの少しだけすくめ、唇を柔く曲げた。
「ふーん。そうなんだ」それだけで終わらせた。追及はしない。押し込まない。
ただ、ヴェゼルが今それ以上は言わない人間だと理解しているからこその距離感で、静かにそれを受け止めた。ソニアも視線を逸らさずに前だけを見ている。
風だけがソリの横をすり抜け、三人の間には、やさしい沈黙が落ちた。
そして、ヴェゼルはため息をつき、真剣に念を押す。
「自分としてはこれ以上余計な噂は広げたくないので、先ほどの魔法の件は他言無用でお願いします」
「助けてもらった恩もあるから、あの魔法は他言無用にするわ。安心して」
プレセアは少し微笑み、ソニアも頷くだけで無言の同意を示す。
「それにしても、あなたって口が達者ね。普通なら悪口とか言われたらムキになる歳でしょ?」
プレセアは軽く首を傾げ、興味深げに訊く。「何にでも正論で返すなんて、大人というか……ああ言えばこう言う的な?」
ヴェゼルは笑みを浮かべ、ずけずけと言い返す。
「プレセアさんの胸が草原のように平坦で、地平線のように遠くまで見通せそうってことですか?」
「ぷっ……」ソニアも、そしてキャブスターも思わず笑いを噛み殺す。
「このエロガキめ……!」プレセアに頭を軽く叩かれた。
橇が再び雪を蹴る。小一時間ほど走り、次はソニアの膝の上だ。無口で落ち着いた彼女は、基本的に何も言わない。揺れるたびにヴェゼルの後頭部に大きな柔らかい何かがふわりと当たる。しかし、ソニアはその存在を意識せず揺れているだけなのがまた厄介だった。
「ソニアさんは、クッション効いてますね……先ほどよりもとても快適です」
ヴェゼルがプレセアを見ながら嫌な笑いを浮かべて話す。
「……そうですか?」ソニアは少し首を傾げるだけで、表情からは何もわからない。
その隙に、プレセアがムッキー!と怒る。「このエロガキ! やっぱり噂通り……!」
ヴェゼルの頭を叩こうとした勢いで前のめりになったプレセアは、橇から落ちかける。しかしソニアは、ためらわず手を伸ばしてプレセアを引き戻した。
その衝撃でヴェゼルの姿勢がくるりと回転し、前向き抱っこになってしまった。結果、ヴェゼルの顔は自然とソニアの胸の谷間にすっぽりと埋まる。
「ん……っ……うわぁ……!」
思わずヴェゼルの小さな悲鳴が橇内に響く。ソニアは動じず、ただ「……落とさなくてよかった」と小声でつぶやく。
「ちょっと! なによその体勢、このエロガキ!」
プレセアは必死で手を伸ばそうとしたが、また前後にバランスを崩しそうになる。
「お、おい、セプター! 踏ん張れ! 後で動かないでくれよ!」キャブスターの注意の声が入る。セプターの足音が雪面を蹴る音に混じり、橇の中はにぎやかな戦場と化した。
ヴェゼルは顔を胸の谷間に押し付けられながら、酸素が足りなくなるのを感じつつも、この上ない幸福感に包まれる。
「ああ……この世の幸せはここにある……『神は天にいまし、すべて世は事もなし』………………」
プレセアの大きな声が遠くに聞こえる。「笑いながら失神してるわよ、この子……キモっ!!」
ヴェゼルはそれを聞く余裕もなく、ソニアの胸に押し付けられたまま、幸福なままに意識を飛ばした。ソニアはヴェゼルの異変に気づくが、馬橇は止まらない。
雪原の冷たい風が二人の間を通り抜け、緊張の戦場から一気に解放されたその瞬間を、雪煙と笑いが彩っていた。




