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第317話 そして帰る

出発は早朝だった。帝国の冬は、雪国特有の静けさの中に霜の匂いが混じっている。


バーグマンは馬橇を手配してくれていたが、それはただの馬橇ではなく、車輪とブレードランナーを切り替えられる特製で、大型の橇にも小型馬車にもなる代物だ。馬はセプター。スレイプニルの血を引く巨大な馬で、見ているだけで威圧感がある。


「…これ本当に馬なんですか?」


ヴェゼルが聞くと、御者であるキャブスターが、少し誇らしげに笑う。


「ああ。あれは普通の馬じゃない。帝国でも数が少ない。息子のキックスとアビー様が小さい頃は、このセプターに抱えてよく乗せたもんだよ。キックスは大泣きしたが、アビー様だけは笑ってたな」



出発の前、みんなで軽く挨拶を交わす。アビーは、いつもより少しだけ顔を赤らめて、ヴェゼルの前に立った。小さな手をぎゅっと握り、目を合わせる。


「ヴェゼル……またすぐ会えるよね?」


ヴェゼルは笑みを返す。「もちろん。春のお祭りで会おうね」


アビーはその言葉に安心したように頷くと、すっと身を乗り出してヴェゼルに軽くキスをした。ほんの一瞬、ほんの軽いキス――だが二人にとっては十分に大きな意味を持つものだった。


それを見たオースチンも「ぼくも…」とサクラに迫るが、サクラはすばやくヴェゼルの胸ポケットに逃げ込み、オースチンはしょんぼりする。


サクラはちらりとオースチンを見て、羽でひらりと飛び、オースチンの頭をそっと撫でると、また胸ポケットに戻った。それだけでオースチンの機嫌はすぐに直り、ふくれっ面は笑顔に変わる。


ヴェゼルとアビーも、キスの余韻に少し照れながらも、手を振り合った。胸ポケットの中でく毛布に包まるサクラ、そして少し寂しそうな顔のオースチン。みんなの視線が交差する中で、朝の凛とした空気に小さなほのかな温もりが混じった。


アビーは最後にもう一度声うぃかける。「気をつけてね、ヴェゼル」


「アビーもね」ヴェゼルは微笑み、馬橇に乗り込む。雪に足跡を残すその後ろ姿を、アビーはじっと見つめた。




そして、セプターが雪を蹴り、帝国の冬を切り裂くように進む。白い世界を、ただ一直線に。普通の商人の馬車はすぐに遠く後ろになっていき、音だけが置き去りにされていく。


ヴェゼルは小声で呟く。「セプターは……すごい速さですね」


キャブスターは笑いながら手綱を軽く弾いた。「そりゃあもう、仕事の馬車じゃありえん速度だなぁ」


昼前には、もう行程の半分を越えていた。セプターはまだ余裕だったが、キャブスターの腰の方が限界が近いようだ。


「いや、申し訳ない、ヴェゼル殿。セプターは平気でも、私の腰が平気じゃなくなってきてな」


ヴェゼルは収納箱から、テンプターが渡してくれた暖かいスープを取り出し、美味しそうな匂いのスープを湯気と共に手渡す。


セプターにはホーネットシロップ入りの水を与えると、それは一瞬で飲み干され、巨馬は首を傾け「おかわり」を要求するように鼻を鳴らした。その図体に似合わず、わがままなようだ。


サクラが胸ポケットの中から顔を出したので、小さなカップを渡すとスープを一口啜る。


「こういう旅も悪くないわねぇ」


そう言いながら、スープにパンを浸して食べる。人心地ついたヴェゼルとキャブスターは交互に木の影で用を足し再び出発した。


やがて森の入口が見えはじめる。白の世界の中に、灰色のラインが立ち上がりはじめ、木々が密に立ち並び、枝に積もる雪は陽光の反射を吸い込みはじめる。明るさは確かに昼なのに、そこからは違う時間帯が流れそうな雰囲気がした。


サクラがひょっこりと顔を出し、胸ポケットの縁に腰かけ、足をぶらぶらさせる。


「懐かしいわぁ。ね、ヴェゼル。この場所よね……ヴェゼルの収納箱、初めて気づいた時。あの瞬間は、ちょっと驚いたの」


「驚いた?」


「うん。なんかすごく『懐かしい匂い』がしたの。すぐに直感したわ」


キャブスターがちらりと聞きながら呟く。「妖精ってのは、そういう未来感知でもあるのかねぇ」


サクラは指先で風を掬うような仕草をした。「あるような、ないような?」


「信用ならないなぁ」とヴェゼルが少し苦笑する。


ここは確かに、ただの帰路とは違う。ヴェゼルは一度キャブスターにお願いして、セプターを止めてもらった。セプターはわずかに蹄を雪に沈ませながら足を止め、大きな鼻息を吐き出す。それはまるで「この森は止まる場所じゃない」と言いたげに、低い唸りにも似た空気を乗せていた。


サクラが小さく呟く。「……空気が違う」


その瞬間、セプターの耳が鋭く立ち、首が低く沈む。毛並みが細かく逆立ち、巨大な蹄が僅かに雪を掻いた。動物が本能で威嚇の前兆を示す仕草は、どの世界でも同じだ。


キャブスターの表情が静かに強張る。「……嫌な感じだ。これは、戦闘前の馬の癖だな」


その言葉と同時に、前方の空気が急に暗くなる。昼のはずなのに、雲がひとつ落ちてきたかのように影が深い。周囲の湿度が、重く、沈むように変化していく。森の奥から、腐りきって熟成しすぎたような悪臭がゆっくりと、押し寄せる。


ヴェゼルは静かに息を整える。説明はいらない。これはセプターが感じたのと同じ「戦闘前の静けさ」のようだ。


そして、森の黒の奥から、人影がこちらへ向かって駆けてくるのが見えた。


いや——あれは、逃げているのかもしれない。


そこで一気に、空気が変わった。


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