第316話 そろそろ
ヴェゼルは明日の朝にはビック領へ戻る予定だった。
今回はアビーと濃密な時間を過ごし、ランツェやサクラの邪魔もなく、休日のような日々だった。領館の空気はいつも通り温かく、笑い声と小さな会話が絶えない、居心地の良い時間が流れていた。
夕食の席では、バーグマンが満面の笑みを浮かべながら、いつもより大きな声で言う。
「婿殿、すっかりこの領館に馴染んだのう。アビーも毎日楽しそうだし、オースチンもサクラ殿のことが気に入った様子じゃしな」
ヴェゼルは口元を緩め、軽く微笑んだ。「ありがとうございます。皆さんに甘えてばかりですが、とても楽しい日々でした」
テンプター夫人も微笑みながら言葉を添える。「家族の一員になったようね。オースチンもヴェゼルさんが気に入ったようですし……それに、なによりオースチンが――」
その瞬間、サクラの膝の上で食事をしていたオースチンが叫び声を上げる。「ちゃくら、だいすき!」
サクラは顔を赤くしながらも、少し嬉しそうに笑った。「あはは……まぁ、懐かれるのも悪くはないかもね」
だが、オースチンの頭はすでにパンくずや肉汁がこぼれ、頭の上はすごいことになっている。テンプターは苦笑しながらも、オースチンの無邪気さに目を細める。
「わはははは、もう家族同然なのだから、アビーが恋しくなったら、いつでも来るがいいぞ!」バーグマンは声を張り上げ、冗談交じりに笑う。
「え……うん、でも本当に……いつでも……いいわよ?」アビーは顔を赤らめ、少し恥ずかしそうに笑う。
「その時は、お世話になります」ヴェゼルは少し照れながらも微笑み返す。
「わかったわ。またお菓子を一緒に作ろうね」アビーはさらに微笑みを浮かべて、と軽くウィンクする。
「お菓子か……じゃあ、今度はもっと変わったものを作るよ」とヴェゼルも返す。
アビーは小さく手を叩いて喜んだ。「ふふ、それなら楽しみね。オースチンもきっと喜ぶわね」
膝の上のオースチンに視線をやると、幸せそうに笑っている。オースチンの頭の上は依然としてすごいことになっているが、そんなことはお構いなしのようだった。
その夜、ヴェゼルはいつものように風呂に入り、サクラとベッドに入ろうとした。
しかし廊下で物音がし、思わず眉をひそめる。どうやらランツェが、最後の夜だからとヴェゼルの部屋に忍び込もうとして、あえなくアビーに捕まったらしい。
ここでヴェゼルが顔を出すとまたややこしくなりそうなので、すぐにベッドに横になるとサクラが小さな声で愚痴をこぼした。
「ここも悪くはないけど、ヴェゼルとあまり一緒にいられなかったわ……」
日中は四六時中オースチンに拉致され、お菓子がなくなるとすぐに侍女が補充してくれて、次々と補充されるそれに心のどこかでは楽しんでいたらしい。
少し?いや、かなり横に膨らんだサクラの体つきに気づきつつも、ヴェゼルは紳士として黙っていた。そして静かに桜の隣で眠った。
やがて朝方、サクラが小さな妖精に戻った頃、ヴェゼルの部屋に怪しい影が忍び寄った。殺気はないので、ヴェゼルもサクラも目を覚さない。二人の深い眠りの中、ベッドに入ると影はそっとヴェゼルに寄り添う。
「……うふふ……」影は小さく声を漏らし、ヴェゼルの優しい匂いと吐息、そして胸の中でその感触に安心したように身を沈めた。
その後、別の影も忍び込んできた。最初の影がいるのを見て、一瞬驚いて尻尾をピンと立てるが、空いた隙間を見つけて滑り込み、ヴェゼルに抱きついたまま眠ってしまう。尻尾がヴェゼルの太ももを緩やかに締め、寝返りはもちろん身動きもままならない状態。ヴェゼルは苦悶の表情を浮かべつつも、睡魔に抗えず熟睡していた。
「うぅ……足が……動かない……」ヴェゼルは微睡の中で小さく呟く。
やがて最初の影が目を覚まし、反対側にもう一人いることに気づき大声で叫ぶ。
「なんでまたランツェがヴェゼルの隣で眠ってるのよ!」
ベッドはぎゅうぎゅうで、左にアビー、右にランツェ、枕元にはサクラ――二人と一妖精は、ヴェゼルと一緒に寝たかったのだ。
「私がヴェゼルと二人で寝るつもりだったのに!」アビーは少し怒り混じりに叫ぶ。
「落ち着いてよ皆、……まだ朝だよ」ヴェゼルは寝ぼけた目をこすりながら、困惑した声を出す。
ランツェは寝ぼけたふりをしながら、ヴェゼルに顔を擦りつけ、くんかくんかと匂いを満喫する。
「うふふ……ヴェゼル様、離れませんよ……」
アビーは目をぱちぱちさせ、怒りと呆れの入り混じった声で言う。「ランツェ……本当にもう、ふざけないでよ!」
ランツェは無邪気に笑い、ヴェゼルの胸にしがみついたまま反論する。「だって……ヴェゼル様と一緒が一番落ち着くんです……」
早朝からの騒ぎに、テンプターはため息混じりで呟いた。
「もう……毎日毎日、いい加減にしてほしいわ……ヴェゼルさんのスケコマシ、どうやら噂じゃなかったみたいね……」
部屋の中はベッドに残された三人の熱気と、怒鳴り声や笑い声が入り混じる賑やかさ。
外から差し込む冬の朝の光が、その嵐を柔らかく包み込み、静かに広がる陽光とともに、何とも言えない独特の温かさを残していた。
「……でも……おれ、動けないんだけど……」
ヴェゼルは小さく息を吐き、ベッドの中で三人に挟まれながら、笑えないけれど少し幸せな苦悶に包まれるのだった。




