第315話 アビー あまあまと実験
それから数日はアビーと共に過ごした。書物を読み、アビーの部屋で語らい、時には静かに窓の外を眺める。
未婚の女性の部屋で二人きりになるなど貴族の子女ならば、普通なら許されぬことだろうが、バーグマンもテンプターも黙認してくれていた。
サクラは時折こちらに来ようとするが、察しの良いオースチンに見事捕まり、軽い抗議も虚しく連れ去られる。それでも彼女の表情には嫌悪の色はなく、むしろあちらで味わえる菓子類には心を奪われている様子だった。
侍女長にアビーはくれぐれも二人で痛いと告げたからか、ランツェはこの部屋に近づくこともままならないようだ。
アビーの部屋は温かく、冬の冷気を忘れさせるほどだった。窓から差し込む柔らかな陽光が、机の上の書物や紙片に淡く反射している。ヴェゼルとアビーは肩を寄せ合うようにして椅子に並び、書物を開いては、互いに目を向けて微笑む。
「ねえ、ヴェゼル……いつもはこんな風にゆっくり話せることなんてないでしょう?」アビーが少し照れくさそうに言う。
「そうだね。いつもは領内だと訓練や仕事とか、たくさんあるからね。それに周囲には必ず誰かがいるし」
ヴェゼルは書物から視線を外し、彼女の顔を優しく見つめる。「こうして静かに過ごせる時間は、少し贅沢な気がするね」
アビーはくすりと笑い、そっとヴェゼルの手に指を絡める。「贅沢……ね。ふふ、そう思えるくらい、平和なひとときってことね」
ヴェゼルは微かに笑みを返す。肩を軽く触れ合いながら、二人は無言のまま陽の光を浴びていた。時折、アビーが小さな質問を投げかけ、ヴェゼルが理知的に答える。そのやり取りの合間に、二人の距離は自然と縮まる。そして、そっとキスをする。
「……ヴェゼル、あなたって、本当に冷静で、いつも平然としているのね」アビーがふとつぶやく。
「そうかな? でも、アビーといるとドキドキするよ」
ヴェゼルは微笑みを絶やさず、指先でアビーの手を軽く撫でる。
「でも、アビーの前では少し甘々になってる気がする」
アビーは頬を赤らめ、くすぐったそうに笑った。「ふふ……もう、そんなこと言わないでよ。顔、熱くなるじゃない」
ヴェゼルはそっと彼女の手を握り直し、軽く自分の掌の中に包む。温もりが掌を通じて伝わり、互いの鼓動がわずかに速まる。外の冬の空気とは対照的に、部屋の中は温かく、甘い空気に満ちていた。
そのまま二人は書物を広げ、互いの顔を見つめたり、言葉を交わしたりして過ごす。どこか照れくさい微笑みと、ほんの少しの意地悪な冗談を交えながら、時間はゆっくりと流れた。まるで、この静かな瞬間が永遠に続くかのように。
窓の外で風が雪を揺らす音も、二人にとっては遠い世界の出来事のようだった。ヴェゼルの指先にアビーの手が重なり、二人だけの小さな世界が、ひそやかに温かく輝いていた。
アビーがふと呟く。
「ねえ、ヴェゼル……こうして平和で一緒に過ごせるのは嬉しいけれど、同時に少し不安になるの」
ヴェゼルは顔を上げ、彼女の表情を見つめる。「不安?」
「だって、魔物や盗賊……ヴェゼル達のように突然襲われることだってあるし、この幸せがいつ壊れるか分からないじゃない」アビーは手を握り、少し震える声で続けた。
「だから、相手を傷つけるような攻撃じゃなくても、自分の身を守れる魔法ってないかしら?」
ヴェゼルは微笑み、思案する素振りを見せた。
「なるほど……では、少し実験を兼ねてやってみようか。水と土、火を組み合わせれば水蒸気爆発ができそうだし、小麦粉や炭、石灰などを粉末にして舞わせれば粉塵爆発も応用できそうだ」
アビーは目を輝かせる。「水蒸気爆発? 粉塵爆発? 攻撃にも防御にもなるの?」
「たぶんね。使い方次第で、守る手段としても活かせると思う」
ヴェゼルは机の上の書物に手を置きながら、説明を続けた。
「まずは理論だけでも覚えておけば、いざというときに応用できるよ」
アビーは小さく頷き、心の中の不安と少しの興奮が入り混じる顔で、ヴェゼルに学ぶ覚悟を固めた。
庭の作業場に行く途中、実験と聞いてオースターも思わず前のめりになり、二人を追って庭の作業場へ移動する。屋根の下は雪が避けられ、魔物の解体や訓練で使うには申し分のない場所だ。
ヴェゼルはまず概念を丁寧に説明した。「岩や地面を土魔法と火魔法で熱し、そこに水を加えると、水蒸気が瞬間的に膨張して爆発する。確か千数百倍に一気に膨張するはずだよ」
アビーは目を輝かせ、少し震えながら聞き入る。「なるほど……でも本当にそんなことできるの?」
ヴェゼルは微笑み、少しだけ肩をすくめる。「うん、理屈上では簡単だよ。ただ、実際にやるには……ちょっとだけ集中力が必要かな」
侍女に、割れても差し支えないコップ一杯の水を持ってきてもらう。左手の収納箱に土を収納して、共振位相で微細な粒子に変えると、空中にふわりと浮かび上がった。
そして粒子に振動を加えていくとその粒子は赤く熱を帯び、徐々に周囲の温度も上がっていく。ヴェゼルは粒子の動きを微調整しながら、まるで微細な舞踏を眺めるかのように集中していた。
「アビー、オースターさん、少し下がってください」
ヴェゼルも距離を取ると、アビーは後ずさり、オースターも眉を寄せながら慎重に身を引く。
そして、ヴェゼルが熱した粒子をコップの上に振りかける――瞬間、強烈な蒸気が立ち上り、水は膨張してコップは一瞬で爆散。霧と熱気が空間を満たし、触れれば火傷必至であることを誰もが理解した。
オースターは目を丸くしている。アビーは驚きのあまり、口を押さえたまま小さな声でつぶやく。
「……これが、コップ一杯で?……す……凄い!」
「攻撃にも防御にも使えそうだな」ヴェゼルは淡々と呟く。
「これ、規模を大きくしたら……すごいことになるわ!」アビーは震えながらも興奮を隠せずに言う。
ヴェゼルは微笑みながら、教える。
「アビーなら、魔法で土や岩を熱して、水を加えれば同じことができると思うよ」
「わかったわ、これから練習してみる」アビーは小さく頷き決意を固める。
ヴェゼルはにやりと小さく笑った。「次は、粉塵爆発をやってみようか」
アビーは目を輝かせ、オースターも前のめりになる。ヴェゼルは説明する。
「小麦粉や炭、石灰などの燃えそうな物を粉末状にして空中に舞わせて、そこに火種を加えると、瞬間的に燃え広がるんだよ。爆発力はかなりの規模になると思う」
作業場にあった石灰を手に取り、共振位相で微細な粉末に変えると、ふわりと空中に浮かび上がった。白い粉塵は光を反射し、まるで小さな雲のように庭の空間を漂う。アビーは少し身をかがめ、風の魔法で粉を舞い上げて離れた木箱に移動させた。
「危なそうだけど、何だか見入ってしまうな」オースターは顔をしかめつつも、どこか楽しそうに呟く。
「準備はいい?」ヴェゼルが声をかけると、アビーは魔法で火種を粉塵に慎重に加える。
小さな炎が粉に触れた瞬間、空間が爆発的な熱と光に包まれた。木箱は粉塵と共に飛び散り、白い雲が庭に広がる。破片や微細な粉が十メートル範囲にまで舞い散り、アビーとオースターは思わず後ずさりする。
「わっ!こ、こんなに……!」アビーは手を振って粉を払いながら叫ぶ。
オースターも口を開け、驚嘆の声を漏らす。ヴェゼルは淡々と、「結構威力があるな」と呟く。
アビーは振り返り、怒ったように叫ぶ。「なんでそんなに平然として言えるのよ!普通なら絶叫ものでしょ!」
ヴェゼルは肩をすくめ、微笑みながら平静を装う。「まぁ、計算通りだからかな?」
粉塵爆発の後、庭には白い粉と熱気が残り、焦げた匂いが漂う。二人はしばし呆然としながらも、次第に笑いがこみ上げる。アビーは手で顔を覆いながら、「これ、訓練したらかなり強力な威力になりそうね……!」
オースターも吹き出す。「いやー、まさか粉でここまで凄いとは……しかし、この実験、私たちは驚きましたが、ヴェゼルさんは冷静すぎますね!」
ヴェゼルは微笑みながら、舞い上がった粉塵を指で軽く払う。
「平常心が大切なんだよ」
アビーは笑いながらも、胸を躍らせるように頷いた。
「わかったわ……でも次は、私がやる番ね!」
二人とオースターは笑い声を上げつつ、粉塵爆発の現実的な威力と、魔法の可能性を肌で感じる午後となった。
庭の空気には、熱気と白い粉塵がまだ残っていたが、その混ざり合った光景は、彼らの心に刻まれたのだった。




