第314話 ケーつく
朝食を済ませると、オースチンはにこにこと笑いながら、小さな手でサクラをむんずと掴んで子供部屋へと誘っていく。オースチンはサクラが大きくても小さくてもお構いなしのようだ。
「ちゃくら!」
「ちょっ、やめて、オースチン!」
サクラは慌てて飛び退こうとするが、オースチンの小さな手なのに、ふわりと持ち上げられてしまう。その様子に、周囲の大人たちは思わず笑みを漏らした。オースチンは満足そうににこにこしていて、サクラの抗議の声など気にしていない。
ヴェゼルは小さく息をつき、アビーと共に厨房へ向かった。廊下の端でランツェがじっとこちらを見ていたが、彼女の視線をあえて見なかったことにして、そのまま進むのが最善と判断する。
ヴィヴィオ料理長はすでに材料や器具を整えて待っていた。バーグマンが事前に手配してくれたおかげだ。
ヴェゼルは厨房の中を見回しながら、少し首を傾げた。
「ここには、どんな果物の保存食があるんですか?」
ヴィヴィオ料理長がにこりと笑う。「野苺やブルーベリー、それにリンゴのシロップ漬けなどですね」
ヴェゼルは考え込む。(前回はビック領の結婚式で野苺やベリー系を使ったな……)
「今回はリンゴにしようかな」
アビーが目を輝かせて頷く。「なるほど、リンゴでね。いいわね! 私大好きよ!」
料理長もくすりと笑い、材料を差し出した。
「ではリンゴを使いましょう」
厨房に、ほのかな緊張と楽しげな空気が混ざる。ヴェゼルは少しわくわくしながら手を伸ばした。
アビーがあらためて料理長に言う。「このレシピは他言無用って聞いてるわよね?」
「はい、バーグマン様から聞いています。秘伝のレシピというものは、ワクワクしますね」
ヴェゼルは微笑んで応じた。「そうですね。このレシピを知っているのは数えるほどしかいませんよ。ビック領以外ではお二人だけです」
料理長はあらためて、「絶対に言いません」と宣言する。
ヴェゼルは収納箱を開け、先日結婚式で使って残った羊乳と卵を取り出した。どちらもまだ新鮮で、使い勝手は十分だった。
「さて、まずはバターから作ろうか」アビーが興味深そうに見つめる。
ヴェゼルは羊乳の瓶を手に取り、リズムよく振る。ふわりと泡立ち、徐々にバターが分離していく様子に二人の顔も自然とほころぶ。
「ほら、見てください。こうして固まっていくんです」
「わぁ、面白いですね」
次に卵を割り、白身と黄身に分ける。白身はボウルに集めて泡立て、メレンゲ状に。小さな泡が立ち上るたびにアビーは目を輝かせる。
「ホーネットシロップを少しずつ入れて……そう、焦らず、ゆっくりと」
ヴェゼルは丁寧に混ぜながら説明する。アビーも慎重に従い、二人の手元には泡立った白身が光を反射して輝いた。
小麦粉を加え、生地を整えると、ヴィヴィオ料理長が火加減を確認しながらオーブンに入れる。甘い香りが厨房に広がり、二人は思わず顔を見合わせる。
「美味しそう……!」
「まだ焼き上がり前だよ。でも、この香りだけでもう幸せだね」
生地が冷める間に、残りの羊乳を泡立てて生クリームを作り、再びホーネットシロップを加える。丁寧に塗りつけ、リンゴのシロップ漬けを飾れば、ケーキは完成だ。少し不格好だが、それも手作りならではの愛嬌である。
昼食の時間になり、食堂にはバーグマン、テンプター夫人、オースチン、オースター、そして捕まったままのサクラが揃った。ここでようやくサクラは解放されたようだ。今日の昼食は簡素で、パン、肉、野菜の漬物とサラダのみ。皆は控えめに食べ、ケーキのことをちらりと意識している。
「この後、ケーキがあるんでしょ?」サクラが小さくつぶやくと、オースチンが手を振って答えた。
「ちゃくら、ケーキ!」
「はいはい、もうすぐですよ」テンプター夫人が微笑む。
その様子を見て、サクラもつい笑みを漏らした。小さな混乱が、食堂を少しだけ温かく、賑やかにする。
「これがケーキです! 今日のはリンゴのショートケーキです」
ヴェゼルとアビーがケーキを抱えて食堂に入ると、場の空気がぱっと明るくなった。サクラは飛び上がるほど喜び、オースチンは小さな手を叩きながら、にこにこと声を上げた。
「ケーキだわ! この匂いたまらないわね!」
その声に釣られたのか、オースチンも興味津々で身を乗り出す。小さな手を振り回しながら、必死で声を出して笑う。
「けーき!たべる!」
「はいはい、落ち着きなさい、オースチン」テンプター夫人が微笑むが、幼児の興奮には勝てない。
アビーがナイフを手に、丁寧にケーキを切り分けていく。「はい、ヴェゼルからどうぞ」
「では、毒味も兼ねて味見を。いただきます」
ヴェゼルはまず自分の分を口に運ぶ。ふわりと広がる甘さとリンゴの香りに、自然と笑みがこぼれる。
「うん、うまくいった! おいしいよ、アビー!」
その声と同時に、皆が一斉にフォークを手に取り、ケーキを頬張る。バーグマンは目を細めてうなるように、「うまい!」と声を上げ、テンプター夫人も目を輝かせて頬張った。
サクラも小さなフォークで上手にすくい、満面の笑顔。オースチンも隣で真似して、必死に一口ずつ運ぶ。アビーはそんな二人の様子を見て、自然と笑みを浮かべた。
「おいしー!」サクラが声を張ると、オースチンも負けじと「おいしー!」と叫び、二人の声が食堂に響き渡る。皆がその様子を見て、大笑い。
バーグマンは感心して言った。「天上の甘味と言った意味が、よく分かった」
テンプター夫人は頬を押さえ、幸せそうに微笑む。「毎日でも食べたいわ」
「これをうちの料理長が作るなら、訪問してきた貴族たちは驚くだろうな」
バーグマンはヴェゼルに向かって、少し照れくさそうに言う。
「何か対価をビック家に払わねば、申し訳ないな」
「突然押しかけてきたお詫びです」ヴェゼルが答えると、バーグマンは苦笑い。
「お詫びにしても申し訳なさすぎるな……では、婿殿に貸を一つ。何か困ったことがあれば、私がすぐに駆けつけるからな」
ヴェゼルは丁寧に礼を言った。
サクラはまだ食べ足りないのか、横でぼんやりしているオースチンのケーキをこっそりフォークですくって食べようとする。すると、ヴェゼルと目が合い、思わず声を出す。
「あっ!」
その声に、食堂中が一斉に注目。初めてオースチンは自分のケーキが減っていることに気づく。
「めっ!」小さな怒声に、皆は大笑い。
「あはは!……他の人のケーキはどんな味かと思って!」サクラは慌ててフォークを引っ込め、顔を赤くする。
ヴェゼルは「どれも同じだよ」と苦笑い。
さらに奥の侍女たちの部屋からも歓声が聞こえる。どうやら余分に作ったケーキを分けてもらい、皆で楽しんでいるようだ。
ヴェゼルが微笑みながら説明する。「料理長が分けてくれたのでしょう。みんなが喜んでいるようです」
バーグマンも小さくうなずき、「ありがとう、婿殿」と声をかけた。
甘い香りと笑い声に包まれ、食堂はほっこりと温かい空気に満ちた。ケーキは、今日も大人気だった。




