第312話 嬉し恥ずかしお風呂でいちゃいちゃ
夕餉はあたたかな灯に照らされていた。
銀の器に柔らかな匂いが立ちのぼり、家族のような息遣いが卓のうえに積もってゆく。
ただし一人、顰めっ面で食卓に座る精霊モドキがいた。サクラはオースチンに気に入られすぎてその隣から逃げることが出来ないでいた。少しでも席を離れれば泣かれるのだ。仕方なく、小さな腕のすぐ横に座っている。
普段なら客と子供は一緒に同席することは憚られるのだが、ヴェゼルは身内として扱われているので、オースチンも同じテーブルに座っていた。
そんな顰めっ面も数分の出来事で食事を目を前にするとすぐに吹き飛んでしまうのがサクラだ。先ほど、あんなにクッキーを頬張っていたのに、食事も豪快に食べていく。
「サクラちゃんはすごく食べるのね?」アビーが小さく目を丸くする。
「夕食は別腹よ!」
サクラは胸を張って言い切った。どこにも悪びれた様子はない。ただその一言でまた卓が柔らかく揺れ、みんなは苦笑するばかりだった。
サクラに触発されたのか、普段野菜を嫌うオースチンも、彼女の真似をして野菜を頬張る。テンプターはそれだけで感無量といった顔で息を吐いた。
ランツェはアビーの横で静かに皿を下げつつ、何か言いたげだったが、アビーの「視線」に気付いてそっと目線を落とした。その一瞬だけ、音もなく静かな火花が散った。
食卓にある幸福な空気は、料理の味をさらに深くする。ヴェゼルの隣には当然のようにアビーがいて、二人のあいだの距離が自然に近い。バーグマンがふと思い出したように肩を揺らした。
「婿殿、そういえば先ほどの雑談でサクラ殿が言っておった『ウェディングケーキ』とやら。あれは天上の如き甘美なお菓子らしいのう。どうやって作るのだ? 教えてはもらえんかのう?」
「材料は、羊か牛の乳と卵と小麦粉とホーネットシロップがあればできますよ」
ヴェゼルは落ち着いた声で答える。
「乳と卵かぁ……すぐには用意できぬな」バーグマンが難しい顔で腕を組んだ。
ヴェゼルはふいに微笑み、アビーを見た。
「自分の収納箱に、結婚式の時の残りがありますよ。……そうだ! アビー。明日、二人で作ろうか?」
アビーはニコッと笑って即座に返事を返す。「うん! 一緒に作りたい!」
その声音は元気で、同席の空気にも、その温度が沁みた。サクラはそれを見て、黙っていられなくなる。
「私も手伝い……あ、う、やっぱり面倒だから『タベセン』にするわ!」
「タベセン?」バーグマンが眉をひそめる。
「食べる専門の人!」サクラは胸を張り、目の前のパンを頬張りながら答える。
「たべちぇん!」
オースチンがそれを真似て叫ぶ。天使のようで皆ほっこりして、また卓に笑いが満ちる。夜はそれだけで、良いものの匂いに変わるのだと思えた。
蒸気が立ちこめる湯気の中、バーグマンは満面の笑みでヴェゼルを半ば拉致するように浴室へと引っ張り込んだ。ヴェゼルは困惑していたが、それでもその動きには妙な安心と、家族の匂いのような温かさがあった。
バーグマンの体には古い傷跡が刻まれており、それがこの領を守りぬいてきた歴史として目の前に存在していた。その視線に気づいたバーグマンが言う。
「婿殿が領主になったら、守るものの重さをその身で知る日が来るぞ」
ヴェゼルは一度息を整えてから、そっと視線を上げた。
「では、バーグマンさん。背中を洗いますね」
ヴェゼルはタオルを取り、そっとバーグマンの広い背に手を置いた。力を込めると、少しずつ泡が立つ。
大きな背中は厚く、温かく、そして重かった。それはただの筋肉ではなく、この領を守ってきた「年月」の質量だった。ヴェゼルはその重さを指先で受け止めるように、少しずつ擦り続ける。
自分が洗っているのに、自分の手の方が試されているような、そんな奇妙な感覚があった。少年の小さな手は、その厚みの前で慎ましさを覚えながら、それでも未来にある同じ重さをほんの少しだけ想像する。
そしてヴェゼルは小さく、ほとんど自分に言い聞かせるように息を吐いた。
「……こういう背中に、なれるのかな」気はその呟きを包み、かすかに揺らした。
「次はわしの番じゃな」
バーグマンは軽々とヴェゼルの背を洗った。あっという間だ。比べるまでもない体格差だが、それが妙に微笑ましい。
「婿殿の背はまだまだ小さいのう」
二人は泡を流し、湯に浸かった。灯の明かりが湯面に揺らぎ、二人の影を柔らかく伸ばす。バーグマンは湯に沈めていた腕をゆっくり動かし、からかうような笑みを浮かべた。
「婿殿は女性にモテモテじゃのう。ランツェも婿殿を好いとるようじゃ」
「……アビーとサクラで十分ですから」
その言葉は、湯気の中で遠慮がちに沈んでいった。バーグマンはわっはっはと豪快に笑い、その笑いが湯を揺らす。
「アビーを正妻に立てるなら、ランツェも悪い娘ではない。一緒にも嫁にらってくれても構わんぞ」
ヴェゼルは返す言葉をなくし、視線を湯面へ落とした。バーグマンはその反応すら愉快そうだ。そのやり取りの中で、どこか家族の間合いにも似た距離が生まれていた。
風呂から上がると、廊下には適度な冷気が流れていた。扉の先にはランツェが待っており、両手にはふかふかのタオルを掲げ、誠実な眼差しと、静かな期待が宿っていた。
「ヴェゼル様……拭かせていただきます」
「じ、自分で拭くから大丈夫だよ!」
ヴェゼルは慌ててタオルを抱え、素早く身体を拭きはじめた。ランツェは一瞬むくれたが、礼節を崩さないまま控えめに下がる。その様子を見たバーグマンはまた腹を抱えて笑う。
「照れ屋じゃのう、婿殿は!」
大人の余裕と、子供の羞恥と、妙に家庭的で暖かな空気が廊下に流れた。ヴェゼルは寝巻きを手に取りながら、今夜はもう十分だと小さく思う。
バーグマンの豪快な笑いがあとに残り、夜は穏やかに、家族としての温度を静かに濃くしていった。




