第311話 その後のヴェクスター邸
隣の部屋では、オースターがアビーの弟オースチンを預かり、積み木で遊んでいた。ふと部屋の外の騒がしさに気づき、オースターは小声で独り言のように呟く。
「隣の部屋、さわがしいですねぇ……」
するとオースチンが楽しげに声を上げた。「あい、ちゃくら!」
オースターは首をかしげ、「チャクラ?」とつぶやき、そばにいた侍女から事情を聞く。
どうやら夕方、ヴェゼルが突然訪ねてきて、サクラも一緒に来ていたという。
納得したオースターは「あぁ、サクラさんですね」と答えると、オースチンは満足そうに「あい!」と元気よく返事をした。
しばらくして、二人は応接間に呼ばれた。部屋に入ると、すでに皆が勢揃いしている。しかしヴェゼルとランツェはシュンとしており、その様子をバーグマンとテンプター夫人は生暖かく見守っていた。
まずは丁寧に挨拶を交わす。ヴェゼルがなぜ来たのかを尋ねようとした瞬間、バーグマンが豪快に笑った。
「アビーにどうしても会いたくなって、婿殿が来てしもうたわい!わはははは!」
赤くなるヴェゼルの横で、サクラは相変わらずクッキーを頬張りながら呟く。「あ、これ他のと違う。味変?」と。
オースチンはすぐにサクラに抱っこをねだり、しぶしぶ受け入れられる。ほほえましい光景だが、サクラはクッキーを食べる手を止めず、オースチンの頭にはカスが舞い散る。それでもオースチンは嬉しそうに笑った。
バーグマンはにこりと笑い、提案する。「せっかく来たのだから、数日は我が家に滞在すればよかろう」
アビーはにっこり笑い返した。「そうよ。邪魔なのはランツェくらいだから、二人でゆっくりしようよ!」
ヴェゼルも頷き、安心したように微笑む。
その後、バーグマンは話を続ける。
「ビック領からの新商品で我が領も潤っておる。この地域は他と比べて魔物が多いから燻製肉も好調だし、白樺の木もビック領に比べれば少ないが自生しておる。ホーネットシロップの作り方を伝授してもらったからそちらも好調だ。ただし売上の一部はビック領に入るのだがな。さすがオデッセイ殿だ。それでだな……」
アビーは大きく手で×を作り、父親に制止した。
「ダメ! お父様!さっき言ったでしょ!ヴェゼルは私が独占するの! だからお仕事の話はダメ!」
バーグマンは苦笑し、オースターが尋ねた。「アビーさん、お勉強はどうしましょうか?」
アビーは肩をすくめて答えた。「あと数日はお休みでいい? その後は今までの倍頑張るから」
オースターは素直に頷くしかなかった。
アビーがヴェゼルの手を引く。「ヴェゼル、隣の部屋に行こ!」
バーグマンは微笑みながら声をかける。
「婿殿、ホーネット村へ帰るときは特別製の馬車を出すから心配無用じゃ。雪にも強い、あれなら安心して帰れるぞ」
ヴェゼルは礼を言い、アビーに手を引かれ隣の部屋へ向かった。ランツェも一緒について行こうとしたが、アビーが制した。
「ランツェはダメよ!ヴェゼルのベッドで一緒に寝た罰!」
耳を垂らしてシュンとするランツェの横で、サクラはオースチンを膝に載せたままクッキーを頬張る。
オースチンの頭は白髪のようにカスまみれになっている。バーグマンとテンプター夫人は苦笑しながらその様子を眺める。やがて、オースチンはサクラの膝で船を漕ぎ、眠りについた。
隣で、オースターはバーグマンに尋ねる。「なぜ、ヴェゼル殿は来られたのですか?」
バーグマンは穏やかに微笑む。
「ヴァリー殿が亡くなり、心が不安定になっておったのじゃろう。あれだけ一緒にいて仲が良かった者が突然いなくなったのだ。あの幼さでよく耐えられたものよ」
オースターは静かに頷いた。
「確かに私もビック領に行ったのでわかりますが、ヴェゼル殿は見ていてとても痛々しかったです」
バーグマンは無言で頷き、しばらくして口を開く。
「話を聞くと、グロム殿とエスパーダ殿の結婚式の後、婿殿は複雑な心境になったようじゃのう。あのように後先考えずに行動するとは、子供らしいところをはじめて見た気がするわい。それでもこの冬のさなか、単騎でアビーに会いに来るとはのう。普通の子供には真似できぬことよ」
オースターは目を丸くして尋ねる。「一人でホーネット村から、この季節に?」
バーグマンはニヤリと笑った。
「そこが常人ならざるところじゃのう。大人でさえ雪の中を単騎で馬を駆るのは難しい。熟練の冒険者や兵士の伝令でも対策が必要じゃ。それをわずか七歳の少年がやるとは、誰も想像できまいよ」
さらにバーグマンは笑いながら話す。
「駆け込んできた婿殿はのう、手足の指が凍傷でほぼ壊死しかけておったぞ。頬もひび割れて血が滴っていた。仕方なく回復薬を使ったがな」
オースターは驚いて呟く。「回復薬を?」
バーグマンはにこやかに答えた。「アビーの婿殿への投資と思えば安いものよ」
オースターは目を丸くして驚嘆した。
「高位貴族でも滅多に手に入らぬ代物……1本でも、それなりの家が建てられるほどの金額です。それをためらわず使うとは、それだけヴェゼル殿を大切に思っておられるということですね」
バーグマンは少し胸を張り、誇らしげに続けた。
「あれほどの婿殿は、この帝国中を探してもおらんじゃろう。たとえワシの娘の婚約者でなくても、あの存在を知ってしまったら、どうしても誼をつなぎたくなっておったじゃろうのう。まぁ、それ以前にあの婿殿の気質をワシが気に入っておるということもあるじゃろうかのう」
隣の部屋からはアビーの楽しげな声が漏れてくる。ランツェは侍女の仕事そっちのけで、必死に耳をドアにくっつけている。微かに笑いながら、バーグマンもオースターもその様子を見守る。
オースターが思わず小さく吹き出しながら言う。「ランツェ、もう少し控えめに……」
バーグマンは肩をすくめ、苦笑しながら言う。
「この屋敷には、普段誠意を尽くして仕事をしている者に、そんなことで咎める者はいないのじゃ。幼き者の好奇心は、多少なら見逃すのが肝要じゃろう」
ランツェは顔を赤くしながらも、しかしドアに耳を押し付ける手を止めない。隣の部屋の笑い声に耳を澄ませ、身を乗り出していた。
二人の大人は笑いを堪えつつ、隣の部屋の騒がしさと、ドア越しのランツェの必死さを眺めていた。その様子は、屋敷全体に漂う暖かく滑稽な空気を、静かに、しかし確実に作り上げていた。




