第310話 ヴェゼル駆ける05
ヴェゼルは、小さく息をつき、慎重に言葉を続けた。
「アビーがいるのが当たり前の日常になっていたんだ。……ごめんね」
アビーの瞳がじわりと潤み、しかし微笑む。
「ヴェゼルが、私のことを思って、この真冬に、たった一人で謝りに来てくれたことが嬉しいわ」
言いながら、そっと駆け寄り、ヴェゼルを抱きしめる。柔らかな胸の温もりと、微かな鼓動が伝わる。アビーの唇が軽く触れ、優しいキスを落とす。少年は少し驚きながらも、自然に抱き返し、両手で彼女を包んだ。
しばしの沈黙の後、ヴェゼルは小さな手で収納箱を開き、白い小さな箱を取り出す。
ひざまずき、ゆっくりとアビーの前に差し出す。箱の中には、光沢を放つ小さなプラチナの指輪が入っていた。彼の手はわずかに震えている。
「これは、グロムおじさんとエスパーダさんの結婚式のために作ったんだ。東方の古の国では、結婚の際、互いの指に指輪を嵌め、永遠に途切れぬ愛と絆の証としたんだって」
ヴェゼルはそっと指輪を取り上げ、アビーの左の薬指に滑り込ませる。
「この指輪は、たとえ離れていても心を繋ぐ……そう伝えられているんだ。だから、これをアビーに渡したい」
アビーは静かに指輪を見つめ、微笑む。
「……ありがとう、ヴェゼル。嬉しい」
彼女の瞳に優しい光が宿る。ヴェゼルは震える指で指輪を確かめ、見つめ返す。そのまま抱きしめ、顔を近づけてもう一度キスをしようとした瞬間、ソファの影から「ボリッ」という音が響いた。
二人は訝しげにソファの後ろを見やり、覗くと、そこにはランツェとサクラが、隠れていた。ランツェはばつが悪そうに小声で言う。
「サクラ様が、こんなときにクッキーなんて食べるから……」
だがサクラは全く気にせず、顔を上げて二人を見つめ、にへらと笑った。
「なんでいるのよ!見てたのね!」アビーが声を荒げる。
ランツェは顔を赤らめながら答える。「サクラ様が隠れようっていうから……」
サクラは胸を張って言い切る。
「だって、さっきバーグマンさんに聞いたら、二人の様子を見てていいよって言われたもん!」
アビーは「お父様!!!」と叫び、怒りの火花が瞳に揺れる。周囲に他の者がいないか確認し、視線をキョロキョロと走らせた。
ランツェは気づかれぬようそっと部屋を出ようとするが、アビーはすぐに手を伸ばして捕まえた。するとアビーの目に、ランツェの髪の毛が乱れているのが映る。寝癖……!?。「……ん?」と、アビーはピンときた。
「ねえ、ヴェゼル……倒れてベッドに入ってからまだそんなに時間が経っていないのに、なぜ起きてきたの?」
ヴェゼルは口を小さく開け、しばし口籠る。アビーが鋭い目で睨むと、ようやく答えた。
「寝てたんだけど、隣で人の気配がして、誰かがモゾモゾ動いたり抱きついたりしてきたから……いつものサクラかなと思って、腰に手を回したら、尻尾があって驚いて……目を開けてみたら、ランツェだった…………だから慌てて飛び起きたんだ…………」
ランツェがぼそりと呟く。
「また腰と尻尾を触られました……これはもう、求愛、もう結婚しか……」
アビーは髪を逆立て、怒声をあげる。
「ランツェ!さっき言ったわよね!ヴェゼルには手を出すなって!」
ランツェは必死に言い訳する。
「手は出していません。ベッドではバンザイをしてました。ヴェゼル様が寒そうだったから、添い寝をしてさしあげただけです!」
「それが手を出したってことよ!」とアビーは怒鳴る。
その騒ぎを、バーグマンとテンプター夫人はドアの隙間から覗いていた。バーグマンは笑いを堪えつつ呟く。
「さすがに帝国中に響き渡るスケコマシ殿だな。確かに賢いし優しいし、行動力もある。アビーの婿殿としてはうってつけじゃが、あの年だというのに、気づくと女性が不思議と寄ってくる。将来、アビーも苦労しそうだのう」
テンプター夫人は半ば呆れつつ問う。「それで良いのですか?」
バーグマンは微笑む。
「婿殿なら、アビーを必ず幸せにしてくれるであろう。命懸けで、あの年齢でここまで一人で駆けてくる男など、そうはいまい。アビーは良い伴侶を捕まえそうじゃ。ただ、アビー以外に果たして何人嫁になるのかのう」
テンプター夫人も思わず微笑み、三人の視線は穏やかに、しかし楽しげに二人の様子を見守るのだった。




