第309話 ヴェゼル駆ける04
ためらいがちに言葉を探すように、ヴェゼルは口を開いた。
「あの……アビーが、クルセイダーの襲撃のあと、ビック領まで来てくれて……」
一瞬、息を止めるように瞼を伏せる。
「……ヴァリーさんが亡くなって、自分でもどうしていいかわからなくなっていたんです。アビーは、そんな自分を心配して、寒い中をわざわざ来てくれたのに……ぼくは……」
アビーは小さく首を振った。「当然じゃないの、ヴェゼル」
その言葉を受けて、ヴェゼルは首を振り、少し肩を落とす。
「ううん、違うんだ。……あのとき、俺は確かに落ち込んでいた。でも、何もしていないとついヴァリーのことばかり考えてしまう。それが怖くて、あえて仕事や領務に打ち込もうとしていたんだよ。……それが、結果的に、アビーに向き合えていなかった理由なんだ」
小さな手が拳にぎゅっと握られ、わずかに震えている。
「アビーの思いはわかっていたのに、きちんと向き合えていなかった。……ごめん。ちゃんと感謝もできていなかった」
アビーは息を詰まらせ、微笑みを浮かべながらも、優しく言った。
「ヴェゼル……私が行ったことに、そんなに謝る必要はないわ。ビック領にいる間、とても楽しかったもの。あなたと一緒にいられて、幸せだった。ただ……もう少し、二人きりで話す時間が欲しかっただけ」
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。静かな音が、二人の間に柔らかな間を作った。
ヴェゼルの声が、かすかに震える。
「……俺は、アビーならきっとわかってくれるって思っていた。それが甘えだった。勝手にそう思って、気持ちを軽んじていたんだ。……母に言われて初めて、自分の甘さに気づいた。それが、悔しくて、情けなくて」
言葉の端が震え、喉の奥が詰まる。涙をこらえるように口を引き結ぶ少年の姿を、バーグマン卿は静かに見守った。
「婿殿……」低く呼ぶも、続きは言わず、ただ黙して少年の言葉を待つ。
応接間の空気は、暖炉の橙色の光と、淡い沈黙に包まれたままだった。
ヴェゼルは、絞り出すように言った。
「……そこで、思ったんだ。アビーの誠意に、本当に応えていたのかなって。それを考えると、もう居たたまれなくなって……気づいたら、馬に飛び乗ってた……」
アビーは小さく息を呑み、肩をそっとすくめるように言った。
「……ヴェゼル、そんなに思い詰めなくてもいいわよ。だって、ちゃんとわかっているもの」
ヴェゼルは少し俯き、拳を握りしめる。
「迷惑なのは承知してる。でも、どうしても、会いたかった。ちゃんと話したかった。アビーに謝りたかったんだ」
アビーはにっこり笑い、手をそっとヴェゼルの腕に添える。
「謝ることなんてないの。あなたがここに来てくれたこと、それだけで十分嬉しいのよ」
その声には、拙くも真実の響きがあった。幼いながら自らの欠点を見つめ、逃げずにここまでやって来たヴェゼル。その事実自体が、少年の成長を静かに物語っていた。
バーグマンは静かに微笑み、ヴェゼルを見つめた。「……婿殿は、よく考えておる」
ヴェゼルは少し緊張した面持ちで俯く。
バーグマンはゆっくりと口を開き、言葉を重ねた。
「だがな、婿殿はまだ七つの子供じゃ。それでいて、これほど他人を思いやれるとはのう」
バーグマンは頷き、さらに続ける。「普通の子供は、いや、大人でさえ気づかぬことを、婿殿は見抜いておる」
ヴェゼルが小さく息を飲むのを見て、バーグマンは軽く肩をすくめた。
「そもそも、ワシもアビーも、そんなことは承知じゃ」
彼は少し間を置き、視線をヴェゼルに落とす。
「近しい人の死……婿殿にとって、初めてのことじゃろう?」ヴェゼルは小さくうなずく。
「それを仲良くしている者達が気遣うのは当然じゃ」
ヴェゼルの目にわずかに光が宿るのを見て、バーグマンはさらに柔らかく言った。
「ましてや、婿殿もアビーも、お互いを好いておるのじゃろう?」
アビーがそっと頷くと、バーグマンは優しく微笑んだ。「相手を思う心に、謝罪も何も必要はないのじゃよ」
その声音には、からかいも叱責もなく、ただ柔らかい愛情が滲んでいた。
「アビーは、愛されておるなあ。相手がわかってくれると思っていたなんて、それはもう、夫婦のようではないか。わしなども、ついつい“テンプターならわかってくれる”と思ってのう。……いつも怒られておるわい。わっはっは」
豪快に笑う声の奥には、どこかあたたかな照れも含まれていた。アビーは思わず頬を染め、視線を落とす。ヴェゼルもまた、その様子に顔を赤らめ、何も言えず俯いた。
テンプター夫人が、控えめに口を開いた。
「あなた……私たちは、退出したほうがよろしいのではなくて?」
バーグマン卿は一瞬きょとんとした顔をし、それから腹の底から笑い声をあげた。
「はっはっは、そうだのう。あとは若い二人で話すがよかろう」
彼は椅子から立ち上がり、豪快な足取りで扉へ向かう。手をかける前に一度振り返り、ヴェゼルに微笑んだ。
「婿殿、よいか。謝ることは恥ではない。そもそも、お互いの間でこんなことで謝るなど無粋なことじゃ。しかし、それを言葉で伝える勇気を持つのは、もっと難しい。それを今日、婿殿はやり遂げた。それだけで、もう充分立派じゃ」
ヴェゼルは小さく頷いた。胸の奥に熱いものがこみ上げ、言葉にならない。
バーグマン卿と夫人、そして数人の従者が退出すると、応接間は再び静まり返った。暖炉の炎が、橙色の光で壁をゆらめかせる。残されたのは、ヴェゼルとアビー、そして静かな沈黙だけだった。




