第306話 ヴェゼル駆ける01
ホーネット村の領館では、翌日の早朝、まだ夜の名残が薄暗く大地を覆う頃、ヴェゼルは静かに部屋を抜け出し、アビーの元へ向かう準備を始めていた。
床板の軋む音を耳にしたオデッセイは、眠気を払いつつも眉を寄せ、ヴェゼルに声をかける。
「まだ夜も明けないうちから、どうしたの?」
ヴェゼルは短く、しかし決意のこもった声で答えた。
「アビーに、今すぐに会いに行ってきます」
その瞳の真剣さを見て、オデッセイはため息を漏らし、肩越しに微笑む。
「しょうがないわね……気をつけて行きなさい。まずはバーグマン様にちゃんと謝罪よお礼を言うのよ」
ヴェゼルは眉をひそめ、少し怪訝そうに問い返す。
「理由は、聞かないのですか?」
オデッセイは笑みを浮かべながら肩をすくめる。
「あなたは私の息子でしょ? 息子が何を考えているかなんて、すぐにわかるわよ」
さらに声のトーンを下げ、続けた。
「ただし、サクラちゃんは絶対に連れていくのよ」
ちょうどその時、精霊の姿をしたサクラが階段をゆっくりと降りてくる。
手にはクッキーを抱えている。その足取りはふわりと軽く、部屋の中では寒さをものともせぬような勇ましさを漂わせていた。
「誰が何と言おうとも、このサクラちゃんは、必ずヴェゼルの行くところについていくのよ!」
そのあとは声が小さくなり、どこか照れたように呟く。
「……まぁ、寒いのは嫌なんだけど……」
そして一息置き、少し胸を張って付け加える。
「もうすぐ私、朝が明けたら妖精の姿に戻って小さくなるから、ヴェゼルの胸ポケットに入るのよ。だから防寒対策はバッチリなの!」
オデッセイもまた、手早く手配を進めようとする。
「途中で寒くなるでしょうから、温かいものを用意しておくわ。収納箱に入れて持って行きなさい」
ヴェゼルは素直に頭を下げる。「ありがとうございます」
朝日がようやく地平から顔を出すと、薄い霧が光の渦となって空を染める。
その光に照らされ、サクラは妖精の姿に戻り、小さく、しかし確かな温もりを帯びてヴェゼルの胸ポケットに収まった。
毛布で厳重に包まれたその中には、サクラの心配りと愛情が静かに込められている……はずだ。
オデッセイは、温かいスープとサンドイッチを手渡す。胸ポケットが異様に大きく丸みを帯びているのを見たヴェゼルは、思わず苦笑した。
そしてヴェゼルは厚手のコートとマフラーを巻き、手袋をして厩舎へと足を運ぶ。朝露に濡れた馬を撫で、静かに言葉をかける。
「ごめんね、今日はこの寒い中、少し急ぎで行かなくちゃならない所があるんだ……」
馬は穏やかに鼻を鳴らし、ヴェゼルを受け入れたかのように見える。背中にまたがると、朝の冷たい空気が顔を撫で、胸に収まった小さな温もりが心をほっとさせた。
その頃、フリードやグロム、エスパーダたちが徐々にが目を覚ましたようで、部屋の外で軽く動き出す音が聞こえる。オデッセイはその様子を見つつ、静かにヴェゼルに言い聞かせる。
「事情は私が話しておくわ。行きも帰りも気をつけるのよ。ただし、絶対に帰ってくること」
ヴェゼルは無言で頷き、馬の腹を蹴って駆け出す。早朝だから人通りもない。朝の光の中、馬の蹄が土を打ち、霜が淡く光る道を進んでいく。
胸ポケットの小さな温もりは、冷たい風にも揺るがず、ヴェゼルの決意を静かに支えていた。
ひたすら駆けるヴェゼル。馬の呼吸や脚の動きを注意深く見ながら、適宜休息を取りつつ進む。
冬の冷たい空気が頬を刺し、指先や足先の感覚は徐々に麻痺していくが、しかし、焦燥は止まらなかった。
――一刻も早くアビーの顔を見たい。思いはそれだけに集中していた。
道中、雪に埋もれた森の中でゴブリンやホーンラビット、ブラッディベアといった魔物が立ちはだかる。ヴェゼルは呟くように唱えた。
「収納……心臓……」
瞬間、魔物たちは糸の切れた人形のように蹲る。凍てつく大地にその姿を残したまま、ヴェゼルは馬を駆ける。
血の匂いも、魔物の痕跡も、焦る心の前では霞のように過ぎていく。雪は深く、足跡を残しながらも道を塞ぐほどではない。
冷たい風に馬の息が白く立ち、ヴェゼルの顔を打つ。だが、足取りは止められない。
幸い、近年のビック領の発展に伴い、ヴェクスター領への交易路は冬でも人の往来がそれなりに絶えず、道は幾分踏み固められていた。
時折、商人の馬車とすれ違う。幾人もの商人が団体で雪道で魔物に備えて固まって移動しているようだった。
その様子を横目に見ながら、ヴェゼルは雪煙を蹴り上げる馬の背で、自分の決意をさらに強めていた。
日が徐々に傾き始めた頃、ようやくヴェクスター領の関門が見えてきた。もうすぐだ。もうすぐアビーに会える。




