第304話 ブガッティの報告02
彼らは皇帝の私室に近い、ほとんど外界を遮断した密室で向き合っていた。
その空気は政治儀礼よりも、より素の本音が露になる、帝国の腹の底同士が光と影を擦り合わせるような場所であった。
乾いた緊張が皮膚に貼りつくように重く、誰もが慎重に言葉を選んでいた。だがその均衡を破る声音は突然だった。
ブルックランズ第二騎士団長が言う。
「もしかしたら、ヴェゼルの持っていた精霊の宝珠が、“クルセイダーだけを殲滅できる特別仕様の宝珠”だった可能性はないのか?」
その発言は、ヴェゼルへの侮蔑を感じさせるものだった。当然のように、ブルックランズの中では“今回は偶然に過ぎない。説明のつかない力があったなら、その方が都合が良い”という前提がある。そしてそれは、彼の不満が形を変えて膿のように噴き出しているのだ。
ブガッティは肩を竦め、穏やかに返す。
「その可能性で言うならば、否定はできませんな。宝珠の詳細は秘匿されるのが普通でございますからな」
その瞬間、トランザムは前のめりになって言葉を放つ。「ならばその宝珠、帝国に献上させればよかろう!」
その言葉は、帝国の矜持と血統の神性をまるごと削り捨てたような、思考の浅さそのものであり、席の温度が一段冷えた。その空気を切るように皇妃が目を細め、扇を伏せたまま静かな毒を返す。
「精霊の宝珠の取り扱いを、トランザム伯爵はご存じないのですか?」
どうやら、トランザムは本当に知らぬまま口を開いたらしい。皇妃の声は柔らかかったが、内容は容赦がない。説明の密度が重く沈む。
「通常、精霊の宝珠とはその“血”と契約して使うものなのです。宝珠を授かった血族、子孫ならば問題はない。しかし、まったく関係のない者が勝手に使えば、暴走し大惨事になります。それ以前に、代々伝わる家宝を帝国皇帝の名において簒奪するなど、あり得ない話です」
トランザムはようやく己の不用意さを理解しはじめる。だが皇妃は止まらない。
「もっと酷い例もありましたよ。知らずに簒奪して自滅した者。あるいは宝珠を持つ血族の女性そのものを略取して無理やり子を産ませ、既成事実化した例も過去にありました。帝国内にある精霊宝珠も、皇族の血以外の者が許しなく使えば天罰が下るのです」
トランザムの顔色は一気に青ざめ、深々と頭を下げた。
皇妃は淡々と、その冷徹な論理の刃を置くように言葉を落としたまま続けた。
「どちらにせよ、帝国へ頻繁に献上を欠かしたことのない、初代からの忠節ある直臣のビック騎士爵が、精霊の宝珠か、もしくはクルセイダー三百を殲滅できる力を有していたとして……帝国として何か不都合がありますの?」
それは“ありもしない”と切り捨てるのではなく、“あっても当然であり得る”という、帝国の血脈と歴史の側からの論理化であった。
そこで宰相エクステラが苦い顔で陰りを刺す。
「……しかし、万が一、ビック家が帝国、いえ、皇族に刃を向けたとしたら…」
その瞬間、皇妃は遮るように扇を一点だけ浮かせる。
「先ほども申し上げた通り、あの家は初代皇帝に連なる直臣。帝国に忠節を尽くしてきた家。こちらが誠意を持って対応する限り、牙を剥くなどあり得ません」
宰相はなお言葉を積もうとした。「しかし――」
皇帝が静かに制した。
「やめよ宰相。疑心暗鬼は相手の疑心暗鬼も生む。まずは自国の貴族を信じよ。そこからであろう?」
宰相は苦渋の顔のまま、無言で頭を垂れる。
その均衡の中で、空気を読まぬブルックランズ第二騎士団長が、不穏を撒き散らすように吐き捨てた。
「では、教国との戦争はどうなるのですかな。このままでは帝国が侮られ、他国にも軽んじられる。襲撃されたのは“騎士爵風情”の嫡男。それも“ハズレ魔法使い”だの“スケコマシ”だのと言われる、まだ十歳にも満たぬ子供。しかし、帝国貴族師弟が襲われたのは事実。このままでは――」
話の途中で皇妃の声は鋭く突き刺さる。
「ブルックランズ、まず自国の貴族師弟の誹謗中傷はおやめなさい。そのような心なき言葉が、あなた自身の敵を増やすのです。それに今回の教国との諍いは、ベントレー公爵が謝罪と多額の賠償を得ております。それで陛下は矛を収めるとおっしゃった。それをまた蒸し返すのですか?」
ブルックランズは「申し訳ありません」と頭を垂れるが、その奥底では未だに“ヴェゼルが特別扱いされる”ことへの激しい不満が煮えたぎっているようだ。
皇帝は視線をブガッティに返す。「ビック領はどんな印象であった?」
ブガッティは満面の笑みとなり、扇情を抑えきれない声音で語り出した。
「非常に有意義な旅でございました。あの辺境は雪に覆われておりましたが、話に聞くよりも遥かに発展しておりましたな。冬でも人の往来、商人の行き来が途絶えず、交易・工房・貯蔵庫、すべてが活発に動いておりました」
皇妃が少し首を傾げる。「雪に覆われた冬に賑わう辺境など、帝国でも珍しいことですわね?」
「まさに。それでいて領民は心優しき者ばかり。領主フリード殿はおおらかで、オデッセイ殿は魔法省時代の怜悧さをより研ぎ澄ませておりました。柔と豪の均衡が、極めて自然に実務へ落とし込まれている領運営でしたな。帝国であれほどの理想形は稀有です」
皇帝は顎に手を添える。「ヴェゼルはどうだ?」
ブガッティは愉快そうに目を細めた。
「賢く、理知的で、知識も深い。年齢は十に満たぬというのに、私が弟子として迎え入れてほしいと一瞬でも本気で思ってしまったほどの傑物です」
皇妃が少し目を細める。「本当に、あの子はそこまで?」
「えぇ。もはや弟子と言うより“友”と呼ぶ方が相応しいでしょう。フォッフォッフォッ」
皇帝はその一言に僅かに息を止めた。ブガッティという男がここまで褒めた例など、ほぼ聞いたことがない。皇妃もベントレー公爵も手放しで褒めていた。もはや――疑う必要など存在しない。“あの少年は本物の傑物なのだ”と、皇帝の胸奥に静かな確信が沈殿する。
だがその脇で、宰相エクステラの沈黙は苦味を含んでいた。その苦味は、喉奥に沈着し、ゆっくり冷える鉛のような不快な粘性を伴っていた。
彼は表情へ一切出しはしない。だが――皇妃とベントレー公爵、そしてブガッティまでもが、一少年をここまで褒めるなど、今までを鑑みても思い出せない。
賞賛は誇張ではなく“現実”として語られ、言葉の節々には誠実な驚嘆が宿っていた。そこがなお始末が悪いのだ。虚構でも誇張でもない。あれは“本物”だと三人は確信しているのだ。
宰相は既にヴェゼルとの融和や共存などという発想を捨てている。
今の皇帝ならば問題はないだろう。だが問題は、次だ。次の皇帝の代において、ヴェゼルがどのような立場で帝国を見下ろし、どれほどの影響力を持つようになるか、それは誰にも予測できぬ。
もし皇子が、周囲に支えられねば皇位を維持できぬほど未熟であるのならば、今はオデッセイとフリードという“緩衝材”が存在しているから成立しているだけで、ヴェゼルが襲爵したのち、その均衡がこの国に対して牙を向けぬ保証などどこにもない。その未来像は最悪、帝国がヴェゼルの判断に翻弄される構図にもなり得るのだ。
ならば――屈服か排除か。もはやその二択以外に現実的な線は存在しない。その帰結が、宰相の胸奥で決定的になっていた。あとは、それを現実へ落とすために、ブルックランズとアヴァンタイムと水面下の調整を整えるだけだ、と静かに考えていた。
「ブガッティ、大儀であった。下がって良い」
ブガッティは深く一礼し、密室の扉を静かに閉じた。残された帝国中枢には、その余韻だけがなお重く沈殿し、誰もが次の言葉を一切切り出さぬほどの静謐な圧が、部屋そのものを支配していた。




