第302話 ブガッティも帝都に帰る
静寂は、帝都の夜よりも澱んでいた。ブガッティは漸く自宅に戻ると、コートも脱ぎ切らぬまま書庫へ入った。
奥の棚に封じていた古い木箱をひとつ引き摺り出す。そしてすぐに帝国魔法省の最上階の塔の研究室に行く。
魔法省はこの数年で匂いが変わってしまった。魔法と理に対する純粋な探求よりも、立場と野心の匂いだ。階段を上り、最上階の自室へ向かう途中、アヴァンタイムとすれ違う。沈黙の短い間は、昔より遥かに重くなっていた。
「……ご機嫌麗しゅう、第二席殿」
ブガッティがわずかに会釈すると、アヴァンタイムも形式だけの礼を返した。
「第一席殿も、ご無事でのご帰還、何よりにございます」
その歩幅は、かつての青年の迷いのない歩幅ではなかった。互いの背が離れ切るまで、言葉はなかった。
帝国の魔法省には、いま二つの潮流がある。アヴァンタイムを中心とした、権力と人事を占めたい派閥。帝都の若手はそこに吸い寄せられ、自分の未来を政治で確保する。
対して、ブガッティを支持する面々は緩い。誰も政治に熱心ではなく、ただ魔法そのものに関心を寄せる者ばかり。だから、押し返す力も弱い。この流れが続けば、アビーへの講師の人事を見ても分かる通り、人一人の人事さえ、まともには動かせぬ。
「……アビー殿にも正式な講師を再度派遣せねばならぬが、第二席殿は聞き届けてくださいませんでしょうな」
ブガッティは、独り言のように呟いた。封をした木箱の金具を撫でながら、そこに宿る古い魔力の脈動を確かめる。
帝都へ戻る前に、ヴェゼルの婚約者アビーと直接対面した時、ブガッティは救われたような感覚を持った。
五属性という稀有な器を持つという事実よりも、その心根が優しかった事の方が、彼にとっては遥かに重要だった。
魔法とは、器や数値が優れているから未来を開くものではない。心が曇れば、その力は国も人も破壊する。それをこの大陸の歴史は何度も証明してきた。
だから、あの少女がただの強い器ではなく、ちょっと勝ち気ではあるが、人に自然と手を伸ばせるような、他者を顧みる優しさを宿していた事に、ブガッティは深い安堵を得たのだ。
彼女の中に眠る五属性は、方向さえ誤らなければ必ず国の未来に結び付く。資質より心。この順序が保たれている限り、帝国はまだ道を踏み外していない。そう思えた事が、ビック領から帝都へ戻る道中、ブガッティの胸を支えていた唯一の温度だった。
あの稀有な五属性の器を、政治の都合で放置することなど許されない。本来ならば本省から講師を派遣し、人としての教育まで含めて行うべきだ。それは帝国にとっての未来投資でもある。
「……明日は、今回の事情聴取の顛末を、どう語るべきでしょうかな」
答える者はない。塔の最上階の窓から吹き込む風は冷たいはずなのに、背中へ落ちる温度はそれよりも深い冷えだった。帝国の魔法研究とは、本来、もっと透明で、美しかったはずなのだ。
翌朝、皇城へ向かう石畳を歩く足取りは、帝都の朝より重かった。昨夜、自宅へは戻らなかった。魔法省の塔の最上階の研究室に籠もり、夜通し報告内容を整理し続けたが、結局、答えは一つに収斂しない。
ヴェゼルとの数日間で得た知見は、もはや一個人の研究報告という尺度で収まるものではないのだ。
「……安易な言葉で語ってよいものではないな」
ブガッティは低く息を吐いた。ビック領から戻る道中、ルークスとは楽しい思い出話から始まったが、数刻もすれば、話すべき量と、整理すべき概念と、これから立てるべき仮説が頭の中に雪崩のように積み重なっていき、焦燥だけが先に立ってしまったのを思い出す。
あの数日は、人生でも稀有で、そして濃密だった。ヴェゼルは、自らを初代教皇と同じ転生者だと言ったが、年齢にそぐわぬ理知の目と、異常としか言えぬ近代科学の知識を前にすれば、それを否定する方が不自然だった。
科学を前提に魔法式を組むと、同じ魔力操作で、魔法はまるで別物になる。それは生涯の価値観を根底から塗り替えられるような衝撃だった。
ヴェゼルに弟子入りを願ったあの瞬間、冗談だと笑われたが、もし全てを捨てて良いのなら、それでも構わないと思ってしまったのも真実だ。魔法の理は、まだこんなにも広いのだと感動すらしたのだ。
皇帝執務室の扉の前に立ち、ブガッティは一度目を閉じた。
これから語るのは、教国のクルセイダーによるヴェゼル一行の襲撃の顛末であるが、真実をありのままに語れば、この帝国どころか大陸全体の前提が書き換わる可能性がある。もしかしたら、あまりにもその話が現実と乖離しすぎて信じられない可能性すらある。
今回の言い回し一つで、歴史が異なる分岐を辿るのかもしれないのだ。だからこそ軽く扱ってはならない。この報告は単なる職務遂行ではない。
世界を動かす可能性のある選択だ。
胸の奥に鈍く沈む緊張の重みを噛み締めながら、ブガッティは静かに扉へ手を伸ばした。




