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第300話 その夜に

夜は静かに更けていた。祝宴の余韻がまだ空気のどこかに揺れていたが、ヴェゼルの私室には、深い雪の夜ようなしんとした雰囲気が漂っていた。


サクラは、いつものように、闇がほどけたように精霊の姿に戻り、女性の体躯へと夜ごと戻り、そして何も変わらず、当たり前のようにヴェゼルのベッドに横になった。


「今日は、良い結婚式だったわね」


そう言うサクラの声は、夜の雪より柔らかく響き、ヴェゼルはただ静かに頷いただけであった。


人が天に召され、それでも残った者が前を見て歩いていく。その現実の重みは、祝宴の華やかさよりも遥かに冷たく、しかし確かな温度でヴェゼルの胸に沈んでいた。


「ねぇ、ヴェゼル、私も指輪欲しい」


 サクラは、わざと拗ねるように、しかし少しだけ本気の色を含ませて言った。


 夜は深く、雪は止まぬまま積もり続けていた。ヴェゼルはゆっくりと身体を起こし、収納箱へと手を伸ばした。


 闇の底に潜るようなその操作は、いまや彼の日常でしかない。彼はその中から、小さな指輪を二つ取り出した。大小二つの指輪――どちらも銀の細工が精巧で、夜の灯りを淡く返していた。


「サクラにも、渡そうと思って、大小の指輪を作ったんだけどね……」


 そう言うヴェゼルの声音は少し苦い。サクラが大きくなったり小さくなったりするたび、指輪は外れるかまたは締め上げるかしてしまう。小さくなるのは外れるだけで済む。


だが――


「サクラの着ている洋服は体の大きさによって変化するから良いけど、大きい指輪をしていて小さくなるなら外れるだけ、でもね……小さい指輪をして急に大きくなると………………ね? 想像できるでしょ?」


ヴェゼルがそう言った瞬間、サクラは青くなり、ベッドの上でぴたりと固まった。


「……や、やだ……それは、かなり怖い……想像したくない」


雪明かりが静かに揺れる室内で、サクラの肩は一瞬ぶるっと震え、そして納得したように息を吐いた。


「だったら、私の体の大きさが安定するまで待ってね。ちゃんと安定したら、その時にもらうから。うん、それで良い」


ヴェゼルは、ただ淡く微笑って頷いた。それは慰めではなく、約束の先送りでもなく、彼自身の気持ちの誠実さの形を確かめるような仕草だった。夜はなお静かに、深く積もってゆく。



 夜は落ち着いていたが、ヴェゼルの心は落ち着かなかった。サクラがそう言ってくれたことに対し、ヴェゼルは静かに指輪を仕舞い直した。


 実はアビーの指輪も、同じ収納箱の中に仕舞ってある。サイズは分からないが、とりあえず何か確かなモノをアビーに渡したかったのだ。


本来はもっと早めに婚約指輪として渡すべきだったのではないか。と、何度も何度もこの数日考えていた。だが、結局渡せなかった。


ヴァリーが亡くなって、アビーがわざわざ雪の中を、ビック領に足を運んでヴェゼルのそばにいてくれた。なぜ自分は、その誠意にきちんと向き合わなかったのか。それをオデッセイに遠回しに指摘された瞬間から、それはずっと胸に刺さり続ける棘になっていた。


「自分の思うようにすれば良いんじゃない?」


サクラはそう言った。サクラがそう言うということは、ただ真っ直ぐなその一言だけが、そこに存在しているということでもある。


ヴェゼルは息を吸う。空気が冷たく静寂に包まれた領館の夜の空気。


この世界は容赦なく人の命を奪う。人の命の価値は本当に軽い。だからこそ今を伝えなければならない。いつだって明日が来る保証なんてないからだ。


この世界では、何度も何度も思い知らされた。それは誰かに教えられたのではなく、今回もヴァリーの死がそれを無情に叩きつけてきた。だからもう、後回しは間違いなのだと思い知ったのだ。伝えるべきことは、先送りにして流して良い理由はどこにもない。ヴェゼルは深く深く息を吐いて、そして心の底から静かに宣言した。


「……サクラ。明日の早朝、俺はアビーのところに行こうと思うんだ。雪の中であろうと、朝一番で出るよ」


馬にはかわいそうだが、雪を踏みしめて走れば、夕刻にはヴェクスター領に着く。道中は危険だ。ビック領にも先方のヴェクスター領にも迷惑を駆けて申し訳ないという思いもある。しかし、誰が止めようと関係がない。領でも、周囲でも、政治でも、常識でもない。


誰かに責められるかもしれない。


だが――それでも、アビーの誠意に応えなかったのは、そのまま天秤に掛けて弱さを選んだ結果にしかならない。自分自身の意思だけが、その行動の源泉だ。そうしなければ、アビーにも、サクラにも、そしてヴァリーにも、自分自身にも嘘をつくことになる。


「うん。良いんじゃない?」サクラは優しく微笑んで言った。


その夜、ヴェゼルは布団の中で目を閉じたまま、ただ胸の奥で「決めた」ことを何度も反芻した。雪はまた降り始めているようだ。窓の外の暗い世界の冷たさが、逆に気持ちを澄ませていく。自分はこれ以上誰も失わない。誰かの「想い」を曖昧にしたまま日を跨がない。そういう誓いだけが、寒さの中で確かに温かい。


夜は、更に深く更に静かに更に重く、領館全体を包み込んでいった。雪明かりだけが、その誓いの瞬間だけを淡く照らしていた。


そしてヴェゼルは眠りについた。


――明日の早朝、アビーに会いに行くために。


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