第295話 結婚式01
その朝、領館は夜明けとともにざわめきに満ちていた。厨房では鍋が鳴り、花飾りの香りが廊下をくぐり抜ける。
今日はグロムとコンテッサ、そしてエスパーダとアトン――二組の婚礼の日である。
お昼から式が執り行われるため、朝食は軽く済まされ、誰もが慌ただしくも楽しげに身支度を整えていた。
客も領内の主要な顔ぶれが揃っている。領主フリードとその妻オデッセイ、嫡男ヴェゼルとその傍らに控えるサクラ。
執事カムリ夫妻とその息子のガゼール一家。侍女のセリカや職人のパルサー、子どもたちのトレノ、カムシン、カテラ。まるで一家総出の祭典である。
「ふむ……晴れたな。良い兆しだ」朝の光の中でフリードが空を仰ぎ、声を低く響かせた。
その言葉にオデッセイが微笑みで応じる。
「ええ。今日は現世式に倣った儀を、と言っていたわね。天も祝福してくださったのでしょうね」
準備は入念だった。皆の提案で、今回は神前式ではなく“人前式”――現世の宗教色を無くした婚礼に似せた儀礼形式が採用された。司会進行は当然ヴェゼルが務める。
広間はこの日のために花と布飾りで満たされ、白と淡金の布が天井から垂れ下がる。
窓辺の光を反射して、壁の模様のように瞬いていた。そしてみんなが漸く自分の席についたようだ。
「……さて、そろそろ始めようか」
ヴェゼルが小声で呟くと、合図を受けた侍女たちが一斉に動いた。カーテンが閉じられ、室内の灯が落ちる。沈黙が訪れ、会場を包む空気が緊張へと変わった。
「それでは――新郎新婦のご入場です。皆さま、あたたかな拍手でお迎えください」
少年らしからぬ落ち着いた声が響く。
扉の向こうで音がして、やがて静かに開かれて明かりが灯る。そこに現れたのは、アクティ。フラワーガールとして先頭に立つ少女は、hなを両手に持ち、緊張のあまり肩をすくめ、首を小さく傾けたまま固まっている。
それでも彼女のドレスに縫い込まれた透明なビーズが、灯の光を受けて一面にきらめいた。
小さな足が一歩を踏み出すごとに、花びらが舞い、光が揺れる。
「がんばって、アクティ様!」
セリカの囁きが、後方でやわらかく響いた。
続いて、扉の外から凛とした足音が近づく。照明が再び点り、会場が光に包まれた瞬間、グロムとコンテッサが入場する。
グロムは深藍の正装を身にまとい、鍛えられた体をまっすぐに保つ。その腕に寄り添うコンテッサは、代々ビック家に伝わる白銀のドレスを纏っていた。
絹とビーズの縫い目が滑らかに光を返し、まるで静かな川面に朝陽が差すようだった。
「……グロムらしいな」
フリードがわずかに笑うと、ヴェゼルも頷いて呟いた。
「ええ、堂々としてますね」
二人が正面に進むと、次にエスパーダとアトンの組が扉を開いた。エスパーダは身長が高く、アトンは小柄。その並びが不思議な均衡を成している。
彼の正装はフリードの借り物で、裾をぎりぎりまで伸ばした痕跡が見えるが、誠実な印象がその小さな滑稽さを帳消しにしていた。
アトンのドレスはセリカの白衣のドレスを改装したもので、柔らかな布地に散りばめられたビーズが光を抱き、手作りの温かみを宿している。
列席者の拍手の中、二組は正面の長卓へ進み、それぞれの席に着いた。卓の上には白い布が敷かれ、花と銀の燭台が左右を飾る。その中央に空いた四つの椅子こそ、今この場の主役たちのためにある。
ヴェゼルは深呼吸をして立ち上がり、会場に向かって声を出す。
「では、まず初めに――ビック家領主、フリード殿より、お祝いの言葉を賜ります」
拍手が再び広がる。
拍手の波が静まり、広間の空気がゆっくりと澄んでいく。燭台の炎がかすかに揺れ、誰もがその次の言葉を待っていた。
フリードは胸に手を当て、緊張した面持ちで立ち上がる。普段は豪放磊落な男が、この日ばかりは少し背を伸ばし、口を開くまでに一呼吸置いた。
「……グロム、コンテッサさん。結婚おめでとう」
声は太く、けれどどこか震えていた。その響きに、誰もが自然と耳を傾ける。
「グロムは、普段は表情をあまり変えないが――よくできた弟だ。昔話になるが……父母と兄が相次いで亡くなった時、俺は外に出ていてな。急いで領に戻ると、屋敷の椅子にグロムが一人で座っていた。泣きもせずに、じっと、ただ一点を見つめていたんだ」
静まり返った広間に、フリードの声だけが響く。誰も息をするのを忘れたように黙して聞いていた。
「俺の顔を見た瞬間、あいつは言葉もなく、ただ抱きついてきた。その小さな背中の震えを、今でも覚えている。あの時、俺は思ったんだ。――こいつは、俺が守らなきゃならない、と」
語りながら、彼の視線は少しだけ遠くを見ていた。往年の苦労、孤独、責任。その全てが一瞬にして蘇るかのように。
「それからオデッセイと結婚し、俺は領を継ぎ、そして……グロムは俺をずっと支えてくれた。力仕事も、商談も、領地の揉め事も。あいつは何ひとつ嫌な顔をせず、黙ってやり遂げた。今では俺の方が、あいつに支えられているくらいだ」
オデッセイが小さく頷き、ハンカチを目元に当てる。その横でコンテッサが涙をこらえ、グロムは照れたように視線を落とした。
「だからな、コンテッサさん。今度は、俺じゃ支えきれなかった“心の部分”を、あんたが支えてやってほしい。あいつは、不器用な分だけ、まっすぐで脆い。どうか、よろしく頼む」
会場の空気が温かく包み込まれる。ヴェゼルが横目で父を見つめ、微笑を漏らす。その姿に、少年ながら“家”という言葉の重みを感じていた。
フリードはそこで一息つき、場を見渡した。
「それから、エスパーダさんとアトンさん。二人も、本当におめでとう」彼の視線が穏やかに移り、再び朗らかな笑みが戻る。
「ヴェゼルとエスパーダさんはいろいろあったが、今となっては、あんたが側近になってくれて本当によかったと思ってる。ヴェゼルは頭は切れるが、まだ子供だ。難しいことはよく知ってても、人の心の機微ってやつはまだこれから。だから、エスパーダさん――あんたがうまく支えてやってくれ」
軽く笑いを挟みながら続けた。
「お互い、長所と短所を補い合えるようになれば、きっと強い絆になる。でな、そのエスパーダさんを支えるのが、アトンさん、あんたの役目だ」
会場の視線が一斉にアトンに集まる。彼女は少し頬を染め、笑みを浮かべた。
「エスパーダさんのほうが背が高いが、うちもそうだ。俺よりもオデッセイのほうがずっと小さい。でもな、心の大きさで言えば、オデッセイのほうが俺の倍はある。いや、三倍かもしれん」
オデッセイが「四倍です」と小声で返し、場内にどっと笑いが起きた。フリードも肩をすくめ、照れくさそうに頭を掻いた。
「だからな、アトンさん。身長の差なんて関係ない。心が寄り添えあえば、家はちゃんと守られる。エスパーダさんを頼んだぞ」
笑いと涙が混じるような温かい空気が、広間を包み込む。
フリードは最後にゆっくりと拳を握り上げた。
「ここにいる全員。いや、この領の者すべてで――これからも幸せになろうな!」
その声に、拍手が嵐のように響いた。
燭台の光が揺れ、オデッセイが目元を拭い、サクラが微笑み、ヴェゼルは小さく頭を垂れた。
――そのとき、確かに誰もが思った。
この家が積み重ねてきた年月の重みと、いま確かに息づく「絆」という名の灯を。
文中には書きませんが、オデッセイが自ら作って身につけたウエディングドレスは、ヴァリーとともに、荼毘に伏しています。




