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第293話 ケーつく01

 明後日に迫った結婚式――とはいえ、館の中では誰もが慌ただしく動いていた。


仕立て部屋ではオデッセイ、セリカ、コンテッサ、アトンや侍女たちがドレスやリボンやヴェールを整え、式の会場や庭では男性陣がたちが花飾りの支柱を立て、炊事場では料理班が打ち合わせをしている。


笑い声と掛け声が混ざり合い、まるで春祭りの準備のようだ。


 そんな喧騒の中で、ただ一人、領主フリードだけが所在なげに椅子へ腰掛けていた。


「……俺、何をすればいいんだろうな……」


 そのぼやきは、誰の耳にも届かない。通りすがる者は皆、絶妙に視線を逸らし、まるでそこに「暇そうな領主などいなかった」かのように通り過ぎていく。領主の孤独ほど、誰も触れぬものはない。


 さて、今回の結婚式は“神前”ではなく、“人前式”として行われる。宗教の影響を受けず、互いの誓いを人々の前で立てる――それが領館の皆とヴェゼルの総意だった。


 ヴェゼルは冷静に未来を見据えていた。彼の内にあるのは、ただ穏やかな平和への希い。それを見て、母オデッセイは静かに微笑んでいた。


 だが、今のヴェゼルの胸を満たしているのは政治でも理念でもない。


 ――そう、“甘いモノ計画”だ。


「明日は、極秘プロジェクトを始めるからね。みんなには内緒だよ」


 小さな声でそう囁くと、彼は厨房の隅に数人を集めた。呼ばれたのは、従者見習いのトレノ、木工職人のパルサー、そして村でパンを焼く商人ジールの妻・アルテイシアだ。


 庭の隅には、既に火を入れた石窯がぽうっと赤く灯り、風に煙がゆらめいている。


「今日はパンではなく、もっと柔らかくて、甘いものを作ります。その名は――“ケーキ”といいます」


 ヴェゼルの言葉に、三人の視線が一斉に吸い寄せられる。


「ケーキ……?」とアルテイシアがつぶやいた。


 その声は震え、パン職人としての本能が、未知の甘味の響きに反応しているのが分かった。


「それは、どんなものなのです?」


「あのふわふわパンよりも、もっとふわふわしていて甘い。そして焼き上がると柔らかくて、口の中で溶けるんです」


 説明するヴェゼルの声は丁寧で、どこか誇らしげだった。


 パルサーが腕を組んで唸る。「……本当に、作れるんですか?」


「作れると思います。材料も、昨日そろえておきました」


 そう言って、ヴェゼルは収納箱の空間を開く。淡い光が弾け、そこから白い大きな容器がひとつ、そして籠に入った卵が現れた。羊乳と卵――どちらも領館の新しい試みの産物だった。


 羊は去年購入して近所の酪農家の人に育ててもらっていたのだ。卵もその酪農家さんに出資して鶏を購入して、飼ってもらっていたのものだ。


 味見をしてみれば、羊乳は濃厚で驚くほどまろやかで、舌に濃い甘みが残る。ヤギのような癖もなく、むしろ草の香りがほのかに漂っていた。


「まずは、これでバターを作ります」


「バター? それを振るんですか?」


「そう、根気よく振り続けます。白い塊が浮いたら成功です」


 大きな容器に羊乳を注ぎ、三人でひたすら振り続ける。最初は笑い声が響いたが、数分も経つと誰もが腕をさすり始めた。


「まだかなぁ……腕が……」


「諦めないで。バターが分離したら止めてください」


 少年の声は静かだが、不思議と皆のやる気を引き出す力があった。やがて、容器の中に淡黄色の塊が浮かび上がり、液体が分離する。


「できた!」トレノが歓声をあげる。


「それがバターだよ」


 ヴェゼルは微笑んだ。その瞳に灯った光は、まるで錬金術師が初めて成功を得た時のようだ。


 外の石窯では、ちょうど火が落ち着き、赤い炭火が美しく輝いている。その煙に気づいたのか、門の向こうから声がした。


「ねぇ! なにしてるの?」


 勢いよく駆けてきたのは、アクティだった。髪を後ろで結い、目を輝かせ、好奇心のかたまりのような目。


「……あ、アクティ。…………これは秘密……の作業なんだ……」


「ひみつってだいすき! そういわれると、きになる!」


「……やっぱりそう来るか」


 駄々をこねるアクティに、ヴェゼルは根負けして肩を落とす。


「特別に参加してもいいけど、味見は“結婚式まで禁止”だよ?」


「えー……それ、わたしがいちばん、にがてなやつ!」


 そのやり取りを見て、さらにもう一つの影が後から飛び出した。


「なにか甘い匂いがすると思ったら……ヴェゼル、ずるい!」


 サクラが、いつになく上機嫌で現れた。いつもなら「寒い寒い」と言って収納箱か毛布に包まりヴェゼルの胸ポケットにいるのに、今日は厚着をしてまで出てきている。ヴェゼルの周囲をふわりと旋回し、甘い香りにうっとりしている。


 ――そしていよいよ本番。


 卵を黄身と白身に分け、白身を泡立てる。最初はゆるやかに、次第に泡が雪のように白く立ち、光を含んで輝き始める。


「もういいですか?」


「まだ。腕が痛くなったら交代しよう。白いツノが立つまで混ぜるんだ」


 ホーネットシロップを少しずつ加え、小麦粉を優しく混ぜる。杓文字の動きは慎重に、空気を壊さぬように。アルテイシアの助言を得ながら、正確に見極めていく。


 そして、型に流し込み、石窯へ。炎の赤が揺れ、空気が甘くなる。焼ける匂いが風に乗り、館の外にまで広がっていく。


 誰かが喉を鳴らす。「……もうたべたい!」


「まだ! 焦げないか見てて!」


 炎の加減を見極めたのはアルテイシアだった。彼女はパン焼きの勘で、ちょうど良い瞬間に木の板を差し込み、金色に膨らんだ生地を取り出す。


「完璧ですね。さすがアルテイシアさん! これが“スポンジケーキ”です」


 ヴェゼルが呟く。柔らかい湯気が立ちのぼり、香ばしい香りが庭を包み込む。


 誰もがごくりと唾を飲み込む。


「初めの一個は試作です。みんなで味を確かめましょう」


 その一言を聞くや否や、アクティとサクラが同時に飛び出した。


「だーめ!」ヴェゼルが慌てて両手を広げて止める。


「生クリームをつけてからだよ。それで完成なんだ!」


 二人は無言で、しかし確実に目を輝かせながら頷いた。


 風が、石窯の煙をさらっていく。その中で、少年の胸は高鳴っていた。


 ――これは、みんなが喜ぶこの世界で最初の“祝福のケーキ”になる。


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