第292話 結婚式の準備
来週に迫った結婚式。その言葉を耳にしても、まだ屋敷の空気はどこか柔らかい。笑い声が漂う食堂の奥で、ヴェゼルは静かに考えていた。
ヴァリーの喪はまだ明けていない。だがこの世界では、死を穢れとはせず、輪廻の一環として受け入れるようだ。
――亡くなった者は、再びこの世へ生まれ出る。そのために、生者が嘆きよりも祈りを選ぶのだという。だからこそ、彼らは慎ましくも前を向くことを選んでいた。
「ねぇヴェゼル、式のことなんだけど――」
オデッセイが声をかけてきた。母の声には、普段の領政をしきる実務家としての響きよりも、どこか高揚が混ざっていた。
「神前はあの事件もあったから避けることでみんな同意してるけど、じゃあ、どんな形にすればいいのかしら」
ヴェゼルは頷き、少しだけ微笑んだ。
「前の世界では、宗教を介さない“人前式”というものがあったんです。神や司祭を立てず、参加者を証人として誓う形式です」
「人前式?」
「はい。皆の前で、ふたりが誓いを交わす。たとえば――」
彼は少し言葉を整え、記憶の底から引き上げるように口を開いた。
「“健やかなるときも、病めるときも。喜びのときも、悲しみのときも。富めるときも、貧しいときも。これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことをみなさんの前で誓います”」
オデッセイは目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……それ、いいわね。神の名を借りずに、人の前で誓う。帝国の流儀にも合いそうだわ」
「ええ。それに、堅苦しくならない。あとは――ちょっとしたサプライズを考えています」
その夜の夕食時、オデッセイは家族のたちの前で、穏やかに提案を告げた。
「今回の結婚式は、神の前で誓うのではなくて、人前式にしようと思うわ。皆の前で、誓いを立てる形にするの。それと……身内ばかりの式だから、一人一回、何か“余興”を披露するというのはどうかしら?」
「余興?」
「歌でも踊りでも構わないわ。朗読でも剣舞でも。思いつかない場合は、ヴェゼルに相談してみて」
食堂がざわめき、徐々に興奮の空気が広がった。フリードが楽しそうに手を打ち、グロムは口元を吊り上げ、アクティは早速カテラを引っ張ってあれこれ相談を始める。
「人前式……なんだか新しい風が吹いたようね」
「ええ。宗教関係のものは当分遠慮したいわ」
「そうですね、確かに」
夜が更けるころ、ヴェゼルは次々と集まってくる面々に囲まれていた。皆、何を披露しようかと目を輝かせ、少年のように無邪気だ。
まずはアクティたち三人――アクティ、カテラ、サクラがやってきた。
「おにーさま! わたしたち、さんにんで、なにかやりたいの!」
「三人で、か。歌とちょっとした踊りとかはどう? 三人でやると可愛いと思うよ」
「うた!」
「輪唱っていうんだ。順番に同じ歌を重ねていく。声が重なるとき、きっときれいだよ。それに、軽く振り付けを足してみるといい」
「それ、楽しそう!」
「練習は明日こっそりやろうか。当日までみんなには秘密の方が良いよ」
「うん!」
つぎに現れたのは、孤高の父・フリードである。
「……なあヴェゼル。俺、何をすればいいと思う?」
「父さんは武器の扱いなら誰にも負けませんけど、剣舞は優雅すぎるかもしれませんしね」
「歌も無理だ」
「では……体を使った芸をひとつ。“尻文字当て”というのがあります。ふふっ」
「……しり、もじ?」
「ええ、文字をお尻で描いて、誰かがそれを当てるんです」
「ふむ……なるほど……! それは面白そうだ!」
ヴェゼルは思わず口元を押さえた。まさか本気で乗るとは。
次に来たのはオデッセイとセリカ。二人で何かやりたいらしい。
「母上、舞でもやるんですか?」
「舞は誰かがやりそうだし、少し違うものがいいわ」
「なら――お芝居はどうです? 男装の麗人の話があります。『男装の麗人の革命騎士の悲恋』という」
「お芝居! 面白そうね。でも、男装? 麗人?」
そこで、ヴェゼルはおおまかに革命騎士の悲恋の物語を話す。やはりこの物語のキモは女性が男役をやるというところだ。そこをアピールして説明する。
「女性は見たら大好きだと思いますよ。セリカさんは女王役でアントワネット。アンドレ役は……誰か、かっこいい女性は…………コンテッサさんにしましょうか」
その話を聞いて、オデッセイが強引にコンテッサを引き入れる。
「ちょ、ちょっと!?」とコンテッサの悲鳴が室内に響いたが、もはや誰も止められない。
そして、そんな喧騒をよそに、ずっと考え込んでいたグロムは突然席から立って言い放った。「俺は剣舞を披露することにしよう! 刃は鈍にしておかないとな」
そして、トレノとカムシンは肩を並べて入ってくる。
「何か面白いものを」と言う二人に、ヴェゼルは“落語”の概念を伝えた。
「“じゅげむ”という話があるんだ。滑稽で、覚えるのは少し大変だけど、掛け合いにすれば盛り上がると思うよ」
「じゅげむ?」
「覚えられるかなぁ……」
「この紙に書いておきます。ふたりで練習を」
「うん!」
そして、カムリとアトンは二人で静かに迷っていた。
「歌を歌おうかと……でもアクティたちも歌だし、カムリさんとも重なるのもどうかと思うと…」
「そうですね……では、アトンさんは歌。カムリさんは別のものを考えましょう」
カムリは苦笑して言った。「わたしは、何もできませんよ」
そこでヴェゼルは考える。前から思っていたのだが、カムリは前世のあの有名人に似てるんだよな。最遊記で猿をやっていたあの人……。
「いや、あります。テーブル引きという芸があります。布を抜いて、上の皿を倒さないようにするんです。執事のベテランのカムリさんならできると思います!」
「……え? そんなことできるんですか? それにそれが芸になるんですかね?」
「できます。理屈を教えますよ」
「ふむ、そうですね、それは是非やってみたいです!」
最後にエスパーダが来て、淡々と告げた。
「私は詩を読みます。愛の詩があったので、それを朗読しようかと」
「ええ、それが一番、エスパーダさんらしいですね」
夜も更け、ひとり残ったヴェゼルは灯火の下で考える。みんなの顔を思い浮かべながら、自分は何をするべきかと。
サクラが小首をかしげ、机に肘をついて笑う。「ねぇ、ヴェゼルは何をするの?」
「俺か……そうだなぁ。みんなを笑わせたいな」
蝋燭の灯が揺れ、外の風が柔らかく吹き抜けた。争いと喪の影を越え、ようやく迎える“誓いの日”。誰もが少しずつ、新しい季節へと歩き出していた。




