第290話 ヴェゼルとトレノで森へちょっと
冬の朝、空気は張り詰めるように澄んでいた。
来週に控えたグロムとエスパーダの結婚式の準備で屋敷中が賑やかな中、ヴェゼルは妙に暇そうにしていたトレノを見つけ、強引に外へ連れ出したのだった。
「ちょ、ちょっと、ヴェゼル様。寒いですって。僕は暖炉のそばで――」
「だめ。今日はトレノは、俺につきあってよ。俺の従者でしょ。働かなきゃ」
渋々と厚手の上着を羽織ったトレノが、ぶつぶつ言いながら背中の荷を直す。その後ろ姿を見てヴェゼルは微笑んだ。
今日の目的は、山側に露出している黒い岩を探すこと。
領内でも古い火山帯の名残がある場所で、ガゼールから「黒い岩がむき出しになった崖がある」と聞いていた。かつて猟師をしていた彼の案内は信頼できるはずだ。
外は凍てつく風。だが空は晴れ渡り、陽光が雪面をまぶしく照らしていた。
領館の門を出る際、門番をしていたガゼールに「今日は一日晴れる」と聞いたので、ヴェゼルはためらいなく森の方角へと歩き出した。
背には簡易テントと食料、剣。魔物に遭遇するかもしれない旅支度は、想像以上に重い。
「重装備ですよね……そんなに持つ必要があるんですか?」
「トレノが戦えないからだよ」
「……ぐっ」トレノはしぶしぶ口をつぐみ、足元の雪を蹴った。
川沿いの道は思いのほか歩きやすく、雪は薄く積もるだけ。彼らは白い息を吐きながら森を遡った。
ホーンラビットやスライムが現れたが、ヴェゼルが剣を抜く間もなく一閃で沈む。冬の森は静まり返り、風が木々の間を抜けていく音だけが響いていた。
いつもなら胸ポケットに潜むサクラの姿は、今日はない。代わりに、ヴェゼルの左手の小さな収納箱の中に隠れている。
寒さが苦手なサクラは、毛布にくるまり、菓子を食べながらぬくぬくしているようだ。
ヴェゼルがふと蓋を覗くと、冷気の隙間から入ったのに勘づいたのか、覗いた隙間からサクラの目がぎろりと動いた。
「寒いから早く閉めてよ!」
「はいはい。」ぱたりと箱を閉じると、トレノが苦笑いする。
「完全に引きこもり妖精ですね。」
「違うもん! 優雅な有閑妖精のひとときなの!」箱の中から聞こえる甲高い声に、二人は同時に吹き出した。
四時間ほど歩いた頃、川の曲がり角で足を止め、少し広い場所に腰を下ろした。
雪を払って焚き火を起こし、鍋を置く。ヴェゼルが雪をすくい入れ、やがて小さな湯気が立ちのぼった。
「ふぅ……やっぱり温かい飲み物は助かるな。」
茶葉を放り込み、香りが立つ。二人は燻製肉をかじりながら、じんわりと体の芯に温もりが染み渡るのを感じた。
そのとき、収納箱がちょこんと開き、サクラが小さなコップを差し出した。
「私にもね!」
「はいはい」紅茶を注ぐと、すぐに箱の蓋が閉じられた。トレノは笑いながら言う。
「ほんと、ヴェゼル様の周りはにぎやかですね」
ヴェゼルは肩をすくめる。
「まぁ、退屈しないからね。それが良いのかはわからないけど」
そうして短い休憩を終えた二人は、再び川沿いを登っていった。雪解け水の音が近づき、森の奥から滝の轟きが聞こえてくる。
ガゼールの言っていた“黒い岩場”は、その滝のさらに上にあるという。風が強まり、陽も少し傾きかけていたが、ヴェゼルの歩は止まらなかった。
滝を越えた先に、それはあった。冬の陽に照らされて鈍く光る、黒鉄のような岩肌。森の緑も雪の白もそこでは退き、黒い大地が口を開けていた。
「……あれか。」ヴェゼルは駆け足で岩場に近づくと、手袋を外し、冷たい岩に掌を当てた。
「鑑定」淡い魔力が掌から滲み出し、岩の内部をなぞるように広がる。だが、得られる情報は曖昧だった。
前世で聞いた言葉を頼りに、必死に記憶を辿る。
「確か……硬くて、白くて、錆びない金属。マグマが冷えてできる……融点が高くて、元素記号が……PT、だったよな……」
呟きながら、ヴェゼルは瞳を閉じる。魔力を薄く広く徐々に伸ばしていく。
体感だと周囲1キロ、地中はもっと深い。そして、記憶の断片と魔力の感覚が重なっていく。
どんどんと深く魔力を浸透させる。その瞬間、岩肌のずっと底の方で微細な共鳴音が鳴った気がした。
「……見つけたかもしれない…」
魔力が大地へとどんどん広がり沈みこむ。ヴェゼルは静かに唱えた。「収納――そして分離」
次の瞬間、全身から血の気が引いた。魔力が急激に吸い取られ、視界が歪む。
「ヴェゼル様!」
トレノの声が遠のく中、ヴェゼルは岩にもたれかかり、その場に崩れ落ちた。呼吸が荒く、心臓の鼓動が頭に響く。体が鉛のように重い。
「……大丈夫。魔力が抜けただけだと思う……」
それだけ言うのが精一杯だった。
雪の上に倒れたまま、しばらく空を見上げる。澄んだ空の色が、かえって遠く感じた。これが魔力欠乏症、ってやつか。と呟く。
指先が震え、思考も霞む。それでも十分ほど経つと、ようやく体が動いた。
「もう……無茶ばかりして」
トレノが呆れたように支える。ヴェゼルは苦笑いしながら立ち上がった。「心配いらない。成果は十分あったから」
ヴェゼルはゆっくりと収納箱から、先ほど収納したものを取り出した。そこに転がっていたのは、指先ほどの白い金属の塊。
光を反射して、まるで雪の粒が凝り固まったように輝いていた。
「これが……」
「………………」
トレノにも聞こえないくらいの声で呟いた。
ヴェゼルは小さく笑い、胸の奥に熱が灯るのを感じた。
「何に使うんですか?」
「出来てからのお楽しみ」
そう言って背負い袋を直すと、ヴェゼルは踵を返した。陽は傾き、森は薄闇に包まれ始めていた。川のせせらぎが、遠くで金属のように響く。
帰路は無言だった。疲労のせいもあったが、ヴェゼルは今日の成果に満足していた。トレノはどうだったかはわからないが………。
領館の灯が見えたとき、空には一番星が輝いていた。
ヴェゼルはそっとポケットを叩く。収納箱の中で、サクラが寝息を立てているのがわかった。
――今日の収穫は、小さな金属と、ひとつの確信。自らの魔法が、まだ未知の可能性を秘めているという確信だった。




