第289話 グロムの結婚報告と
冬のビック領は、白銀の息をひそめていた。
降り積もる雪が音を呑み、世界はどこか聖域めいて静まり返っている。そんな中、防壁の工事だけが、かすかに音を立てていた。
プラウディア爺が若い工兵見習い二十人を引き連れ、雪煙の中で土レンガを積み上げていく。老骨に鞭を打ちながらも、爺はどこか楽しそうだった。
全体の三分の一が完成し、あとは春を待つばかり。進みは遅いが、フリードもヴェゼルも、誰ひとり文句を言わない。
グロムが剣や槍の扱いを教え、工事の合間には兵士訓練までしていたのだ。遅れるのは当然。むしろ「よく無事に済んだ」と褒めるべきである。
「いやぁ、まったく……今年の冬は、仕事より笑い声のほうが多かったな」
爺がひげを揺らして言うと、ヴェゼルは笑みを返した。かつては冬のたびに飢えと寒さに怯えていた民が、今は家の炉端で笑っていられる。それだけで十分だった。ここ数年で、ビック領は見違えるように変わったのだ。
その日、グロムとコンテッサたちが領内巡回を終えて戻ってきた。二人とも鼻の頭を真っ赤にしながら、厚手の外套を脱ぐ。
「いやぁ、ようやく終わった。全村の人別帳が完成だ」
グロムの報告に、オデッセイが満足げに頷いた。
その人別帳には、領民の名が一人残らず記されている。字が書けぬ者には代筆人がつき、誰も漏れなかった。名前が載れば、病や貧困にあえぐ時、救済を受けられ、戦に倒れれば遺族に補償が届く。ヴェゼルの提案をもとに、オデッセイが制度化した“戸籍と保障”の仕組みだった。
もはや領民ではなく、家族。この世界で、そんな理念を掲げる領は他にない。
グロムが胸を張って報告した人口は六百五十五名。数年前の三倍だ。フリードは感慨深げに目を細めた。
「ヴェゼル、おまえの言った通りだったな。民は、守れば増える」
「ええ。……そのぶん、口数も増えましたけど」
「ははは、そりゃ嬉しい悲鳴ってやつだ」
笑い声が弾けた。外は雪、室内は春のように暖かい。
さらに嬉しい報せがあった。ベントレー公爵から届いた返答書簡には、コンテッサの結婚を正式に承認する印が押されていたのだ。ふたりはどこかそわそわしている。
「来週、領館で簡素な式を挙げよう。身内だけでな」
フリードが宣言すると、グロムは感傷に浸ったように呟いた。
「そうか、ついに年貢の納めどきか……」
「私との結婚がそんなに嫌なのですか?」
冷たい口調で言うコンテッサに、グロムは慌てて手を振る。
「いや、違う違う! 嬉しいよ、うん!」周囲から笑いが起こる。
和やかな空気の中、ヴェゼルが控えめに口を開いた。
「ところで母さん。昨日アクティが騒いでいた、エスパーダさんとアトンさんの件、どうします?」
オデッセイは小さくため息をついた。「……ええ、あの二人ね。呼びましょうか」
グロムとコンテッサは来週の準備があるからと、退出していった。
セリカが笑顔で出ていき、数分後。
ドアの向こうから、なんとも甘い空気が流れ込んできた。
入ってきたのは、いつもより顔を赤くしたエスパーダと、手をぎゅっと握られたままのアトンだった。
「二人とも、お座りなさい」
オデッセイがソファを指すと、二人はぴったりと寄り添って腰を下ろす。
その様子は、見るからに“何かあった”あと。全員の視線が集中し、アトンの耳まで真っ赤になる。
「で?」オデッセイが腕を組む。「これからどうするの?」
沈黙が落ちる。
やがてアトンが小さく息を吸い、か細い声で言った。「……できれば、この領館でしばらく暮らしたいです。それと……」
「それと?」
「エスパーダ様と……早く一緒になりたいと、思っています」
部屋の空気が、一瞬でピンクに染まった。この世界は基本的に相手にある程度の事を致せば、その女性とは、ほぼ結婚するのが常識とされている。
エスパーダは口をぱくぱくさせ、もごもごと何かを言おうとするが、言葉にならない。アトンが不安げに覗き込みながら尋ねた。
「……私と、一緒にいたくないのですか?」
その一言で、エスパーダは勢いよく立ち上がる。
「ち、違います! 一緒にいたいです! というか……一緒じゃないと困ります!」
真っ赤な顔で宣言する姿に、誰もが目を瞬かせた。
「ほう……」
フリードが顎を撫で、ヴェゼルが苦笑する。オデッセイは静かに紅茶を置いた。
「それで?」
「け、結婚します! オデッセイさん、アトンと結婚させてください!」
エスパーダが勢いよく頭を下げる。すかさずアトンも立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「エスパーダさんと結婚させてください!」
しかし、オデッセイの表情はどこか複雑だった。
「……それを、私に言う必要があるのかしら?」
「えっ」二人が顔を上げる。
ヴェゼルが咳払いして口を挟んだ。
「つまりですね、二人が好きで結婚したいなら、母さんの許可とかいらないんじゃないかって話です」
沈黙。次の瞬間、二人は顔を見合わせて笑い出した。
「そ、そうですよね! なんか、オデッセイさんに言わなきゃいけない気がして!」
「私もです!」
全員が苦笑する中、フリードがぽんと手を打った。
「いい機会じゃないか。来週、グロムとコンテッサの式がある。二人も一緒に挙げたらどうだ?」
アトンの目がぱっと輝く。「えっ……いいんですか!?」
「もちろんだ。むしろ賑やかでいい」
エスパーダは一瞬、気後れしたように黙ったが、すぐに頷いた。
「……わかりました。お願いします!」
こうして、来週の領館は二組の婚礼でさらに忙しくなることが決まった。準備に走り回り色めき立つ侍女たち。
そして、その騒ぎの中で、オデッセイがぽつりと呟いた。
「……うち、いつの間にか恋愛領になったのね」
ヴェゼルはにやりと笑う。
「平和の証拠じゃないですか」
外では雪が静かに降り続けていた。
しかし、領館の中は春が来たように暖かかった。
愛と笑いと、少しの呆れが混じる、そんな冬の日だった。




