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第288話 結局朴念仁は何人?

 午後の領館は静まり返っていた。厨房の方からは、包丁の音と、皮をむく小さな音だけが響いている。


 灯りは一つ。食堂の片隅、かすかな燭火の下で、アトンが一人、山ほど積まれたウマイモの皮を剥いていた。エスパーダは廊下の角からそっとその光景を覗く。


 彼女を探して屋敷中を歩き回った末、ようやく見つけたのだ。だが、いざ姿を見つけても、どう声をかければよいかわからなかった。


 今は竈火も火種を落としているので、かなり寒い。そこの椅子に座り込み、無言でナイフを走らせる女性。その小さな背中は、どこか痛々しく、しかしまた強くもあった。


「……」


 声を出そうとして、言葉が喉につかえた。彼のそんな気配に気づいたのか、アトンは振り返らずに言った。


「こういう単純な仕事をしてると、嫌なことを考えなくて済むんです」


「え?」


「いろいろと考えると、不安とか、嫌な記憶が先に浮かんでくるから。無心になれることをしてる方が、楽なんですよ」


 その声音は穏やかだったが、どこか張りつめていた。エスパーダはようやく歩み寄り、ためらいがちに言葉を紡ぐ。


「アトン。このホーネット村まで、私についてきてくれたこと……礼を言っていなかった。ありがとう」


 アトンの手が一瞬止まった。だが何も言わない。エスパーダは続けた。


「私でも道中は大変だった。盗賊もいたし、雪も厳しかった。……君の身体では、なおさら辛かったはずだ。なのに、私は……自分のことばかりで、気づかなかった。本当に申し訳ない」


 彼は深々と頭を下げた。アトンはしばらく黙っていたが、やがてナイフを置いて、柔らかく微笑んだ。


「エスパーダ様が謝るなんて……。そんなの、必要ありません。私がついてきたかったから、来ただけです」


「なぜ、そこまでして?」


 エスパーダの問いに、アトンはゆっくりと立ち上がった。


 そして、彼の正面に立ち、まっすぐ見上げた。瞳の奥で、何かを決意するように光が瞬いた。


「じゃあ、逆に聞きます。――エスパーダ様は、私のことをどう思っているんですか?」


 その問いは鋭く、しかし震えていた。


エスパーダは一瞬きょとんとした顔をし、そして――先ほど同じ質問をヴェゼルにも言われたなと思いながら、同じ解答をした。


「小さい? かな」


 沈黙。


 アトンの肩が震えた。最初は笑おうとしていたのだろうが、頬を伝う涙は止まらず、それが嗚咽に変わり、やがて号泣となった。


「な、なぜ泣くのですか……?」


 おろおろとするエスパーダ。手を伸ばしかけては引っ込める。アトンは涙に濡れた顔で、唇を噛みしめた。


「……エスパーダ様にとって、私はまだ“小さい”だけの存在なんですね」


「そ、そんなつもりでは――」


「もういいんです。私、やっぱり教国に戻りますね」


「なっ……雪がひどいんですよ? 危険です」


「いえ、明日にでもここを出ていきます。ここでは短い間でしたが、お世話になりました。――そして、教国では長い間、お世話になりました。エスパーダ様は、私にとって先生で、兄で……そして、…………父のような人でした」


 アトンの声は震えていたが、静かだった。


「でも、エスパーダ様にとって私は、きっと今でも“小さい女の子”なんでしょうね」


 そう言って、ウマイモを片付け始めた。ナイフの音が、ひときわ鋭く響いたように思えた。


 エスパーダは堪えきれず、アトンの手を掴んだ。突然のことで、アトンは「痛っ」と小さく声を漏らした。


 焦って手を離し、「す、すいません」と言う。


 アトンは頭を下げて、そのまま背を向け、立ち去ろうとした。


「――アトン!」その声は、彼自身も驚くほど大きかった。


 アトンが振り向く。


 灯りに照らされたその瞳は、涙の跡で光っている。エスパーダは息を吸い、ようやく言葉を絞り出した。


「君と……離れたくない」


「え?」


「一番私が落ち込んで、情けない姿をしていたとき……君がそばにいてくれた。だから私はここまで来られたのだ。いつしか自分の中で、君がいるのは当然だと思っていたようだ。今やっと、それに気づいた。遅かったけど…………」


 言葉が止まらない。心が、初めて自分の口を通して形になる。


「さっきまでは、君はあの頃の幼い少女のアトンだった。でも、君がいなくなると思った瞬間、私は気づいた。――君の“大きさ”に」


 アトンは息を呑む。


「確かに君は小さい。けど……君はいつも、その大きな“何か”で私を包んでくれていたんだね」


 沈黙の中で、燭火が揺れた。アトンはそっと問いかける。


「その“何か”が、……わかりますか?」


 エスパーダは困ったように眉を寄せ、言葉を探した。だが、答えが見つからない。伝えたい思いはあるのだが、その単語が思い浮かばないのだ。初めて感じた感情だから。


 アトンはそんな彼を見つめ、やがて柔らかく笑った。


「それが――“愛”ですよ」


 その言葉に、エスパーダの時が止まった。


 アトンは涙を拭い、彼の胸に飛び込んだ。


 抱きしめられたエスパーダは一瞬ためらい――だが、次の瞬間、強く抱き返した。


「ちょ、ちょっと苦しいです」


「あ、すまない」


 抱擁の力を緩めると、アトンは顔を上げ、そっと彼の唇に口づけた。


 短く、温かい、そして確かな時間。


 エスパーダは驚きながらも、そっと唇を重ね返そうとしたが、片腕だからか不安定になって――バランスを崩したアトンが、くすっと笑った。


「やっぱり、エスパーダ様は私がいないとダメですね」


 その笑顔は泣き笑いのようで、優しかった。「そういう人を、“朴念仁”って言うんですよ」


 エスパーダも苦笑し、「そうだね」と静かに頷いた。


 二人はそのまま、床に腰を下ろし、寄り添った。暖炉もない食堂に、二人のぬくもりだけが満ちていく。


 長い沈黙の後、アトンが小さく呟いた。「ありがとう、エスパーダ様」


 その声を聞きながら、彼はただ、彼女の髪を撫で続けた。








 ――そして。


 食器棚の影から、小さな体が一つ。


 そっと顔を出し、にやりと笑った。こういう瞬間を逃さないのが「ヤツ」だ。


 そう、アクティである。


 暗がりの中、悪戯っぽい目を細めながら、彼女は二人を見届けると、小声で呟いた。


「ふふっ、こういうのって……“たなからウマイモ”? いや、“ウマイモからコマ”っていうのかな?」


 そう言って、いたずらっ子の笑みを残し、静かにその場を去っていった。


 残された食堂には、ウマイモの皮の匂いと、二人のぬくもりだけが漂っていた。











そして、その数分後、アクティの声が領館中に響き渡る。



「エスパーダさんとアトンさんが、しょくどうでチューしてたぁぁぁーーーーーー!!!!!!!」


情緒もへったくれもない、いつも通りマイペースのアクティであった。




彼女がいる限り、この領館内で内緒事はできないであろう。



死して屍拾う者なし。

(隠密に徹し、アクティは命を懸けて必ずソレを実行する、但し、その結果、命を落としても当局は一切関知しない)



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