表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

305/350

第287話 朴念仁が

暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、赤々とした光が応接間の壁を照らしていた。冬のビック領は、外に出れば風が頬を刺すように冷たいが、この部屋だけは穏やかな空気に包まれている。


テーブルを囲むのは、フリードとオデッセイとヴェゼル、そしてエスパーダとアトン。慌ただしかった日々が過ぎ、ようやく時間がゆったりと進むように感じていた。屋敷には久方ぶりの“日常”が戻ってきていたのだ。


「さて、これからのことを話しておきましょう。アトンさんはこれからどうしたいの?」


オデッセイが湯気を立てる紅茶を置きながら言う。


アトンは姿勢を正し、しかしどこか落ち着かない様子で手を膝の上に置いた。


「私は……今はセリカさんに侍女の仕事を教わっています。でも、将来的には施術院を開きたいんです」


「おっ!それはいいな。この辺境に住んでる医師や施術師は少ないからな! アトンさんなら若いしかわいいから、引っ張りだこになるだろ!」フリードも声を上げた。


「……施術院か、病院と魔法治療院を合わせたような場所だな」ヴェゼルが呟く。


その瞳は真っ直ぐで、何かに突き動かされているような目をしていた。


エスパーダが静かに頷いた。


「良い考えですね。アトンほどの聖魔法使いなら、多くの人を救える。ずっと私の従者でいるのはもったいないです」


「エスパーダ様……」アトンの目が潤んだ。その視線には尊敬だけでなく、確かな“想い”が滲んでいるように見える。


「でも、私は……本当は、これからもエスパーダ様のお世話をしたいんです」


「アトン」エスパーダはわずかに眉を寄せて言った。


「あなたの人生はあなたのものです。私などに仕えるためにあるわけではないのですよ。私は今後、ヴェゼルさんの側近として一人で生きていく覚悟をしました。あなたも自分の道を一人で歩んでいきなさい」


その口調はあくまで真面目で誠実――だが、あまりに淡々としていた。


「そうだな!施術師は多い方がいいからな!」フリードも追い討ちをかける。


アトンの唇が震え、視界が滲んだ。「……はい、わかりました」


そう言うなり、アトンは椅子を離れ、駆け出すようにして部屋を出ていった。


残された沈黙を破ったのはヴェゼルの深いため息だった。「……まさに朴念仁ですね」


「え?」エスパーダが瞬きをする。


「アトンさん、泣いてたじゃないですか」


「泣いてましたね。……なぜでしょう?」


ヴェゼルは額を押さえた。「本当に気づいてないんですか?」


「ええ。何か私、悪いことを言いましたか?」


「泣いて行ってしまったな。なんで泣いたんだ?」フリードもわからなかったようだ。


隣でオデッセイがあきれたように天を仰ぐ。そしてフリードは秒でオデッセイに睨まれ、わけも変わらず無言に徹することにした。



サクラはヴェゼルの胸ポケットから顔を出し、笑いをこらえるのに必死だった。


「では質問を変えますね。エスパーダさん、アトンさんのことをどう思っているんですか?」


「……よくできた人ですよ。分け隔てなく人に接し、仕事も丁寧。聖魔法の扱いも優れていて、誰に対しても常に誠実です」


「仕事ぶりじゃなくて、女性としてはどうなんですか」


「女性として……?」エスパーダは少し考え込み、ぽつりと言った。


「小さい? かな」


部屋の空気が一瞬止まり、サクラとフリードはぷるぷると震えながら笑いを噛み殺した。


ヴェゼルは無言で額を押さえる。「……はあ。では、別の話にしましょうか」


ヴェゼルは話題を切り替えた。「教国からここまで来るの、大変だったのでしょう?」


「ええ。盗賊にも魔物にも遭いましたし、路銀も尽きかけました。食料も乏しく、風呂に入る余裕もなく……寒さで手足が痺れるほどでした。靴を何足履き替えたか分かりません」


ヴェゼルはうなずきながら、ゆっくりと言葉を重ねた。


「男性のエスパーダさんがそう感じたのなら、アトンさんはもっと大変だったでしょうね」


「……っ」エスパーダの表情が凍る。まるで初めてその現実に気づいたように。


「考えもしなかったです」


「でしょうね」ヴェゼルの声には、わずかに苛立ちが混じっていた。


「きっと、エスパーダさんはずっと、自分を責めることに夢中で、他人を思う余裕がなかったのではないですか?」


すると、エスパーダは俯きながら「その通りです」と言う。


続けてヴェゼルが言った。「だから人の心が見えていないのではないですか? そんな人間が人を導けると思いますか? 人を導こうなんて、百年早いと思いますよ」


言葉は静かだったが、刺すような重みがあった。エスパーダは何も言い返せず、ただ唇を噛んだ。そのとき、オデッセイがすっと立ち上がった。


「……エスパーダさん」彼女の声は冷たくも優しい。


「アトンさんに、直接聞いてみてください。それが解決するまでは、あなたをヴェゼルの側近として認めません」


その言葉に、エスパーダは深く頭を下げたまま、動かなかった。


暖炉の火がぱち、と弾ける音だけが響く。


フリードが先に行き、ヴェゼルとオデッセイは静かに部屋を後にした。廊下を歩く途中、オデッセイがふと足を止める。


「ヴェゼル」


「なんですか?」


「さっきは立派だったわね。でも――あなた自身のことはどうなの?」


「え?」


「アビーちゃんのことよ。あの子は、ヴァリーさんを亡くしたあなたを慰めるために、この村までわざわざ家族と離れて来てくれたのだと思うわ」


そこでヴェゼルの目を見つめて言う。


「自分からは何も言わなかったけどね。それでその想いに、あなたは何か感じるものはあるのかしら? その想いにあなたはどう応えたの?」


言葉に詰まるヴェゼル。


オデッセイはそれ以上言わず、廊下の先に消えていった。


残されたヴェゼルはただ立ち尽くす。


胸のポケットのサクラが、そっと顔を出して一言。


「……何も言えねぇ……」


その小さな声に、ヴェゼルは苦笑さえも浮かべられなかった。


暖炉の光はもう遠く、廊下には静寂だけが満ちていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ