第287話 朴念仁が
暖炉の炎がぱちぱちと音を立て、赤々とした光が応接間の壁を照らしていた。冬のビック領は、外に出れば風が頬を刺すように冷たいが、この部屋だけは穏やかな空気に包まれている。
テーブルを囲むのは、フリードとオデッセイとヴェゼル、そしてエスパーダとアトン。慌ただしかった日々が過ぎ、ようやく時間がゆったりと進むように感じていた。屋敷には久方ぶりの“日常”が戻ってきていたのだ。
「さて、これからのことを話しておきましょう。アトンさんはこれからどうしたいの?」
オデッセイが湯気を立てる紅茶を置きながら言う。
アトンは姿勢を正し、しかしどこか落ち着かない様子で手を膝の上に置いた。
「私は……今はセリカさんに侍女の仕事を教わっています。でも、将来的には施術院を開きたいんです」
「おっ!それはいいな。この辺境に住んでる医師や施術師は少ないからな! アトンさんなら若いしかわいいから、引っ張りだこになるだろ!」フリードも声を上げた。
「……施術院か、病院と魔法治療院を合わせたような場所だな」ヴェゼルが呟く。
その瞳は真っ直ぐで、何かに突き動かされているような目をしていた。
エスパーダが静かに頷いた。
「良い考えですね。アトンほどの聖魔法使いなら、多くの人を救える。ずっと私の従者でいるのはもったいないです」
「エスパーダ様……」アトンの目が潤んだ。その視線には尊敬だけでなく、確かな“想い”が滲んでいるように見える。
「でも、私は……本当は、これからもエスパーダ様のお世話をしたいんです」
「アトン」エスパーダはわずかに眉を寄せて言った。
「あなたの人生はあなたのものです。私などに仕えるためにあるわけではないのですよ。私は今後、ヴェゼルさんの側近として一人で生きていく覚悟をしました。あなたも自分の道を一人で歩んでいきなさい」
その口調はあくまで真面目で誠実――だが、あまりに淡々としていた。
「そうだな!施術師は多い方がいいからな!」フリードも追い討ちをかける。
アトンの唇が震え、視界が滲んだ。「……はい、わかりました」
そう言うなり、アトンは椅子を離れ、駆け出すようにして部屋を出ていった。
残された沈黙を破ったのはヴェゼルの深いため息だった。「……まさに朴念仁ですね」
「え?」エスパーダが瞬きをする。
「アトンさん、泣いてたじゃないですか」
「泣いてましたね。……なぜでしょう?」
ヴェゼルは額を押さえた。「本当に気づいてないんですか?」
「ええ。何か私、悪いことを言いましたか?」
「泣いて行ってしまったな。なんで泣いたんだ?」フリードもわからなかったようだ。
隣でオデッセイがあきれたように天を仰ぐ。そしてフリードは秒でオデッセイに睨まれ、わけも変わらず無言に徹することにした。
サクラはヴェゼルの胸ポケットから顔を出し、笑いをこらえるのに必死だった。
「では質問を変えますね。エスパーダさん、アトンさんのことをどう思っているんですか?」
「……よくできた人ですよ。分け隔てなく人に接し、仕事も丁寧。聖魔法の扱いも優れていて、誰に対しても常に誠実です」
「仕事ぶりじゃなくて、女性としてはどうなんですか」
「女性として……?」エスパーダは少し考え込み、ぽつりと言った。
「小さい? かな」
部屋の空気が一瞬止まり、サクラとフリードはぷるぷると震えながら笑いを噛み殺した。
ヴェゼルは無言で額を押さえる。「……はあ。では、別の話にしましょうか」
ヴェゼルは話題を切り替えた。「教国からここまで来るの、大変だったのでしょう?」
「ええ。盗賊にも魔物にも遭いましたし、路銀も尽きかけました。食料も乏しく、風呂に入る余裕もなく……寒さで手足が痺れるほどでした。靴を何足履き替えたか分かりません」
ヴェゼルはうなずきながら、ゆっくりと言葉を重ねた。
「男性のエスパーダさんがそう感じたのなら、アトンさんはもっと大変だったでしょうね」
「……っ」エスパーダの表情が凍る。まるで初めてその現実に気づいたように。
「考えもしなかったです」
「でしょうね」ヴェゼルの声には、わずかに苛立ちが混じっていた。
「きっと、エスパーダさんはずっと、自分を責めることに夢中で、他人を思う余裕がなかったのではないですか?」
すると、エスパーダは俯きながら「その通りです」と言う。
続けてヴェゼルが言った。「だから人の心が見えていないのではないですか? そんな人間が人を導けると思いますか? 人を導こうなんて、百年早いと思いますよ」
言葉は静かだったが、刺すような重みがあった。エスパーダは何も言い返せず、ただ唇を噛んだ。そのとき、オデッセイがすっと立ち上がった。
「……エスパーダさん」彼女の声は冷たくも優しい。
「アトンさんに、直接聞いてみてください。それが解決するまでは、あなたをヴェゼルの側近として認めません」
その言葉に、エスパーダは深く頭を下げたまま、動かなかった。
暖炉の火がぱち、と弾ける音だけが響く。
フリードが先に行き、ヴェゼルとオデッセイは静かに部屋を後にした。廊下を歩く途中、オデッセイがふと足を止める。
「ヴェゼル」
「なんですか?」
「さっきは立派だったわね。でも――あなた自身のことはどうなの?」
「え?」
「アビーちゃんのことよ。あの子は、ヴァリーさんを亡くしたあなたを慰めるために、この村までわざわざ家族と離れて来てくれたのだと思うわ」
そこでヴェゼルの目を見つめて言う。
「自分からは何も言わなかったけどね。それでその想いに、あなたは何か感じるものはあるのかしら? その想いにあなたはどう応えたの?」
言葉に詰まるヴェゼル。
オデッセイはそれ以上言わず、廊下の先に消えていった。
残されたヴェゼルはただ立ち尽くす。
胸のポケットのサクラが、そっと顔を出して一言。
「……何も言えねぇ……」
その小さな声に、ヴェゼルは苦笑さえも浮かべられなかった。
暖炉の光はもう遠く、廊下には静寂だけが満ちていた。




