第30話 実験農場開始
季節はもう春の終わり、風は柔らかさを増し、畑に立てば陽射しがじわりと頬を温めた。
だがヴェゼルは、その明るさの中に一抹の焦りを抱いていた。
――間に合うだろうか。この季節のうちに、どうしても一歩を踏み出しておきたかった。
領館の隣にある小さな畑と空き地。これまで畑以外は草が生い茂るだけだった場所を、僕たちは「実験畑」にしようと決めた。
村民にいきなり新しい農法を説いても理解されないだろう。だからこそ、自分たちでまず成果を示す。それが、村を動かす最初の鍵になる。
「よし、こっからだな」
鍬を大きく振り上げ、フリードが土を耕し始めた。
脳筋らしい豪快さで地面を砕き、硬くしまった土を力任せにひっくり返していく。その背には汗がきらりと光り、頼もしさを感じさせた。
「お父さん、少し深めにね。根が伸びやすいように」
「おう、わかってる!」
ヴェゼルの声に、フリードは歯を見せて笑い、さらに力を込める。
森の浅い場所からは、黒々とした土――腐葉土を背負い籠に詰めて運んできた。
長い年月、落ち葉や枝が積み重なってできた豊かな土。その柔らかさは一目でわかるほどで、ヴェゼルは感慨深げに指でほぐした。
「これを混ぜれば、畑の土も呼吸できる。きっと根が喜ぶよ」
そこへオデッセイが現れ、軽く袖をまくった。母でありながら、働きぶりは誰よりもきびきびしている。
「さあ、ヴェゼル、一緒に畝を作るんでしょう。フリードの耕した土に、この腐葉土と灰を混ぜるのよね」
灰は村外れの炭焼き小屋から分けてもらったものだ。炭を焼いた残りの粉が、こうして新しい命を育てる糧になる。
カムリやトレノも手伝ってくれる。グロムも無言ながら黙々と作業をする。みんなで土をならし、畝を立てる。ヴェゼルは小さな体で必死に鍬を動かす。
「こうやってね、土を盛り上げて筋を作ると、水はけがよくなるんだ。雨が多いときでも根腐れしにくくなる」
「そうね。空気も通りそうだし、地面の温度も保ちやすくなりそう。だから根が元気に伸びられるようになるのね。ヴェゼルはよく知ってるわね」
褒められたヴェゼルは、少し頬を赤らめた。けれど目は真剣で、未来を見据えていた。
畑の端ではアクティが「おてつだい!」と叫びながら、セリカと一緒に小さな手で土を掘って遊んでいる。泥だらけになりながら笑い転げる姿に、作業する大人たちもつい笑みをこぼす。
「アクティ、そこは畝じゃなくてお城になってるぞ」
フリードが笑いながら声をかけると、アクティは胸を張って「すごいでしょ!」と返す。セリカは苦笑しながらも、その隣で泥団子を作る手伝いをしていた。
そんな光景を、村の人たちは少し離れた場所から眺めていた。鍬を持つ手を止めて、「何をしているんだろう」と興味深げにひそひそ声を交わしている。
「森の黒土だの灰だの……そんなもの混ぜて、作物が育つのかね」
「いや、子どもの遊びじゃないのか?」
その視線を、ヴェゼルは背中で感じていた。胸の奥が少しだけ痛む。――本当はみんなに知ってもらいたい。でも、まだその時じゃない。成果を示すまでは。
「ヴェゼル、顔が曇ってるわよ」
オデッセイが小声で囁いた。
「だって……村の人に信じてもらえるかなって」
「大丈夫。まずはここで結果を出せばいい。畑は嘘をつかないもの」
母の穏やかな声に、ヴェゼルの肩の力がふっと抜けた。
この頃から、ヴェゼルは、農作業の手伝いの合間に、収納魔法をちょっとずつ、練習がてら試すようになった。
まずは小さな小石から。
こうして実験畑の準備は進んでいく。ひえ、あわ、麦、そば、大豆――村で馴染みのある作物をまずは植え、後には輪作を取り入れる計画だった。
土を生かし、作物を守り、村の未来を広げるための小さな挑戦。その第一歩が、いま形を取り始めていた。




