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第277話 スピアーノと風の精霊

 絹の香が漂う室内は、享楽の痕跡を残してなお静まり返っていた。


いつものように女を侍らせていたはずの総主教スピアーノは、今は一人、重厚なソファに腰を沈めている。燭台の炎が揺らめくたび、対面の人物の輪郭が淡く浮かび上がった。


 それは、人ならぬ美貌を持つ女性――風の精霊その人であった。


「……あのような醜態で、よろしかったのでしょうか、風の精霊様」


 スピアーノはひとつ息を吐き、静かに頭を垂れた。


 精霊は、唇に笑みを浮かべる。人を試すような、風の流れのように掴みどころのない微笑だった。


「よいのです。お前は無能と思わせておけばよい。それが、妾の計画を進める最良の仮面となるのだから」


 その声は柔らかかったが、背筋に冷気が走るほどの威圧を含んでいた。スピアーノは眉をひそめる。己の名を貶める芝居を続けることへの不快を隠せなかった。だが、風の精霊の言葉は、絶対でもある。


 彼が女を侍らせ、金と香を浪費し、聖職者らしからぬ生活を続けているのも、すべてはこの精霊の指図によるものだった。精霊は政治に疎いふりをしながら、すべての潮流を風のように読み取っている。教国の命運さえ、その掌の上だった。


「……あのタンドラという若造は真面目ですね」精霊が、ふと別の話題を口にした。


「だが、真面目すぎる。歴代の研究者のなかでも、あやつは収納魔法の真理に最も近づいたようです。――ゆえに、危うい」


「危うい、とは?」


「知りすぎた者は、風の流れに逆らうものじゃ。真理に触れれば、人は必ず“境界”を越えようとする。それは妾ら精霊達にとって、不都合なのです」


 スピアーノは沈黙した。タンドラは教国きっての研究者であり、聖典の真意をも読み解く才を持っていた。だが、その才が、風の精霊にとって「不都合」であるならば――運命は一つしかない。


 精霊は楽しげに続けた。


「それと、お前の息子――エスパーダと言ったか。どうやら、うまくヴェゼルの住まう地へと辿り着いたようじゃ」


「……ヴェゼル、ですか」


「うむ。あの少年は、きっとお前の息子を殺しはせぬよ。妾には分かる。彼は弱者を切らぬ。むしろ、拾う。ゆえにエスパーダはその周囲に留まるであろう。皮肉なことに、敵地こそが、そなたの血を残す安息の地となるのです」


 スピアーノは目を細めた。その言葉の裏に、薄ら寒い未来を感じ取ったのだ。風の精霊は全てを見通している。


――それは、教国の滅びさえ。


「……つまり、この国も、滅ぶ運命なのですか」


 問いかけは、かすれた声だった。精霊は笑った。風鈴の音のような笑いが部屋を満たす。


「妾らに“永遠”などない。流れが変われば、国も変わる。お前の血が残るなら、それで十分ではないではないですか。教国がどうなろうとも、次の世でまた吹けばよいだけ」


 そのあまりに超然とした言葉に、スピアーノの胸がざわめく。しかし次の瞬間には、彼の顔から感情が消えていた。


 この国が滅ぶのなら――それもまた、神の御心。初代教皇の教えに背くわけにはいかない。


 初代教皇は言ったという。「我らの教義は、真理の容れ物を探す旅である」


 つまり、収納魔法の本質を解き明かし、精霊の力を借りて『次元の壁』を渡ること。それこそが教義の究極の使命であり、神の隣に立つ道であると。


 スピアーノ自身は、その『次元の壁』が何を意味するのか朧げにしか理解していなかった。なおかつ、それを超えてどうするのかさえ知り得ない。だが、教国は代々、その理を受け継ぎ、魔法の定義を磨き続けてきた。


 “定義”とは“形”であり、“形”を知ることは世界を再構築することだ。彼はそれを信じていた。


「……ところで、聖の精霊様のご機嫌は如何ですか」


 沈黙を破るようにスピアーノが問うと、風の精霊は表情を曇らせた。


「どうかのう。あの方はここしばらくずっと怯えておる。闇の妖精の気配が現れてからというもの、常に震えておるのじゃ。口を開けば『あれを精霊にしてはならぬ』と繰り返すばかり」


「闇の……妖精……」


「うむ。聖は“闇”を恐れておる。過去の精霊王国のように『国堕とし』を招くとまで言っておった。加えて、『境界を渡る者』を確保しろとも申しておる。妾らには理解できぬ理屈じゃが、聖の予感は外れたことがない。アトミカ教の輩どもも、一時期は『境界を示す者』を探し回っておったようじゃ。だが、あやつらも結局、光の精霊様の御前にすがるしかなかった」


「光の精霊様は……お元気で?」


「ふむ、光は光で籠っておる。アトミカ教の神殿の奥から、一歩も出ぬようだ。あれは光というより、炎の塊じゃ。照らすよりも、焼くことを好む。昔は違ったのじゃがな……」


 風の精霊はそう言い捨てると、ふっと立ち上がった。


 その姿が霧のようにほどけ、部屋の空気へと溶けていく。香の煙が風にさらわれるように、気配は一瞬で消えた。


 残されたスピアーノは、しばし天を仰いだ。


 ――この国は滅ぶかもしれぬ。だが、それでいい。


 初代の理は、精霊の中に残る。己の血と意志が次代へ続くなら、たとえ教国が瓦解しようとも構わぬ。


 そう心で呟きながら、スピアーノは立ち上がる。


 隣室――執務室の奥にある、小さな祭壇の間へと歩みを進めた。


 扉の向こうには、まだ見ぬ真理がある。が揺らす燭の炎が、まるで導くように震えていた。

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