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第276話 タンドラとスピアーノ

 タンドラ総主教代理は、自分の部屋に戻ると金糸の法衣を脱ぎ捨て、いつもの質素な聖衣に着替えた。


そして、深いため息をつき、徐に立ち上がり、総主教の部屋を目指し重い足取りで歩む。重く閉ざされた扉の前で一度だけ深く息を吸い、ゆっくりとノックした。


 内側から、衣擦れと何やらくぐもった笑い声がしたかと思うと、しばしの沈黙ののち、低い声が聞こえてくる。


「入れ」扉を押して入った瞬間、タンドラの眉はわずかに動いた。そしてその部屋の臭気に一瞬怪訝な顔をした。


 かつて神の啓示を受ける聖域であったはずの執務室は、今や黄金と絹で満ち、香の煙と甘ったるい果実酒の香りが漂っていた。壁際には女官が二人、薄衣でスピアーノの背後に控えている。スピアーノは頬をわずかに紅潮させ、手にした水晶杯を弄びながら笑った。


「タンドラか。よう来たの」


「はい、総主教猊下」


 タンドラは感情を表に出さぬよう努め、進められた席に腰を下ろした。


 床には厚手の絨毯、机上には金細工の香炉。あまりに俗世的な光景。だが、この男の前で眉一つ動かせば、命を落とす者も多い。タンドラは慎重に言葉を選んだ。


「今回の……帝国との和解について、少々お伺いしたく」


「ふむ?」


「帝国からの賠償要求を、猊下の仰る通りすべて受け入れました。領土侵犯、襲撃の責任、そして莫大な賠償金。あれをすべて――本当に受け入れてしまって、よろしかったのでしょうか」


 スピアーノは杯を傾け、薄く笑った。


「戦争にはならなかった。それで十分だ」


「……は」


「思った通りになったではないか。結局、帝国には頭を下げればそれで済むのだ。金で全てが解決するのだ。それで良いではないか。次にまた“狂信者”どもが帝国に侵入して誰かを殺そうとも、また頭を下げて金を払えばよい。問題などない」


 スピアーノの声は、まるで取引の話をしているかのように軽い。タンドラは胸の奥に渦巻く反発を押し殺しながらも、唇を噛む。


「……帝国は、確かに報復を避けました。しかし、その裏には――」


「裏などない。帝国はもはや牙を抜かれた獅子よ。前皇帝ならば詰問使ではなく、間違いなく軍を差し向けていたであろうが、今の皇帝は腑抜けよ。報告の通りだ。女狐に首根っこを押さえられておるのよ」


 スピアーノは愉快そうに笑い、指先で女官の髪を撫でた。タンドラは目を伏せた。


 もはや、この男に“聖職者の矜持”という言葉を求めるのは無意味だと、何度も自らに言い聞かせてきた。


 ――だが、これが教国の頂点。神の代弁者を名乗る者の現実。


「賠償金など、税を上げればすぐに賄える」


 スピアーノは言い捨てた。民の飢えも、修道院の困窮も頭にない。金とは、彼にとって神殿を飾る宝石に過ぎないのだろう。

 タンドラはわずかに顔を上げた。「……しかし、民が苦しむことになれば、信徒の離反も――」


「たわけが」低く、冷たい声。スピアーノの目が鋭く光る。


「信徒は神を信じておるのではない。神の名を借りた我らを信じておるのだ。信仰など、形を示せば十分よ。民は見栄えの良い神像と説教を望むだけだ。万が一、どうなろうとも、最終的には我らには精霊様がついておる」


 タンドラは沈黙した。


反論した瞬間、“異端”として処断される。スピアーノが嫡男同然に扱っていたエスパーダでさえ、反論の進言一つで国外追放となった。


血のつながりも、この男の前では何の保証にもならない。ただ、処刑ではなく追放にとどめたのは情ゆえか、それとも取るに足らぬ存在と見なしただけか――誰にも分からない。


 それでもタンドラは思う。――このままでは、教国は神の怒りに触れる。


スピアーノはふと天井を見上げ、微笑した。


「……ところで、聖の精霊様がのう。どうしても“あの闇の妖精殿”を連れてこいと仰せなのだ。風の精霊様が伝えてきてな。最悪、天に召されても構わぬとも言っておる」


 タンドラは息を呑んだ。


「ま、まさか……再び、帝国領へ――」


「ふむ。ホーネット村だな。聖の精霊様が仰せのようじゃ。“国堕とし”の妖精は、生かしておけば必ず災いを招く。だから建前としては我らが“保護”するのだ。だが、聖の精霊様自らが手を下すのは外聞が悪い。だからこそ、我らが手で“保護”せねばならぬのだ。無論、保護しようとして天に召されるのならば、それも天命であろうよ」


 スピアーノの声は静かで、狂気を孕んでいた。


「クルセイダーが三百も天に召された。まさか女子供十人を襲撃しただけでこれほどの損害になるとはな……」


 その言葉には反省の欠片もない。むしろ愉悦の色すらある。


「だが、それも聖の精霊様の啓示の道。尊き犠牲は必然よ。次は“聖の妖精殿”を率いて闇の妖精を捕えに行くのだ。闇の妖精殿の生死は問わぬ。……いや、むしろ殺してしまったほうが良いのやもしれぬな」


「な、なんと……!」


「聖の精霊様にも体面というものがある。まさか、同族を手にかけたとは言えまい。だからこそ、我らが手を汚す。よいな? タンドラ」


 総主教代理は、ゆっくりと頭を垂れた。


「……はっ」


 この場で否定すれば、自らの首が落ちる。それを理解しているからこそ、彼は何も言わなかった。


 “聖の精霊様”――その声を聞いた者は、ここ数年一人としていない。全て“風の精霊様が伝えた”という形でスピアーノを通じてのみ伝えられている。つまり、実際には誰の言葉でもない。だが、誰もそれを否定できない。神殿の最奥で聖の精霊様が沈黙を保つ限り、スピアーノの言葉が“神託”となるのだ。


 タンドラは立ち上がり、礼を述べて部屋を出た。扉を閉めた瞬間、背後から女の嬌声と水のはねる音が聞こえた。


 あれほどの時間も置かず、再び享楽に耽るとは。タンドラは長い廊下を歩きながら、深い吐息を漏らした。


 ――なぜ、精霊様たちはあの男を諌めないのか。


 ――なぜ、神は沈黙を続けるのか。


 初代教皇の遺した聖典に心酔し、かつては土の精霊様と共に収納の理と精霊と神の真理を研究していたあの頃が懐かしい。研究のために夜を徹して語り合い、精霊や妖精たちの純粋な言葉を筆に残した日々。


 それが今では、総主教の実務の代行。机上に積み重なるのは政務書類と報告書。自らの手で書くのは命令書と判子の押印だけ。


 神殿の奥に籠もった聖の精霊は姿を見せず、風の精霊は“伝言者”に堕ちた。


 この国の“信仰”は、もはや神の声ではなく、一人の男の欲望に支配されているようなものだ。石造りの廊下の先、窓の外には教都の尖塔が並び、鐘楼が暮れの鐘を打った。


 その音が、まるで神々の嘆きのように聞こえた。


「……これから、この教国はどうなってしまうのだろうか」


 タンドラは小さく呟き、天を仰いだ。その瞳には、かつて信仰を燃やした炎の残滓が、まだ微かに揺らめいていた。

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