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第275話 ベントレー公爵の教国への詰問

ベントレー公爵は、帝国の紋章旗を掲げた馬車隊を率いて教国の聖都トルネオへようやく入った。


目的はただ一つ――帝国領内で起きた、あの「ヴェゼル一行襲撃事件」の真相を糾弾するためだった。彼の随行には帝国審問局の文官数名と、護衛騎士二十。


だが誰もが知っていた。これは単なる外交ではなく、“戦争前夜の訪問”になり得ることに。


教国の大聖堂――白大理石の階段を上り、光の回廊を抜けた先に、金糸の法衣をまとったタンドラ総主教代理と高位司祭たちが待っていた。香の煙が漂う。聖歌がかすかに流れる中、ベントレー公爵はひとつも頭を下げず、玉座の前に立った。


「――帝国の使者、ベントレー・フォルツァ公爵である。我が領土において、貴国の騎士団が三百騎を率いて侵入し、妖精を攫ったなどとあらぬ因縁をつけ、ビック領フリード・フォン・ビック騎士爵の嫡男ヴェゼル・パロ・ビック殿を襲い、その婚約者ヴァリエッタ嬢を殺害した。この蛮行を、貴殿らはいかなる理で弁ずるのか」


その声音は低く、広間の石壁に重く響いた。総主教代理はしばらく沈黙を保ち、やがて目を閉じて答えた。


「……神の命による行動は、世俗の法に縛られぬ。あれは越境ではなく――救済であったのです」


公爵はその発言を予想していたのか眉を動かさない。


「救済?」


「我らは“妖精誘拐”の報を受けた。妖精――すなわち精霊の下位に連なる者が囚われたと。ゆえに、神域を穢す異端を止めるため、クルセイダーは“神の地”へ赴いた。我らは侵入したのではない。救済に向かったのです」


公爵の唇がゆるく歪んだ。「それは帝国の領地だ。聖地ではない」


「神の声が降りた地は、すべて神域である」その言葉には、一片の悪びれもなかった。教国は信仰によってすべてを正当化しようとしている。


公爵は冷たい眼差しで一同を見渡した。


「――つまり、貴国は“神の声”を理由に、他国の法を踏みにじるというのだな」


「神の声を聞いた者たちは、わたくしたちも制御できませぬ。彼らは巡礼守護団――信仰の熱に駆られた巡礼者に過ぎませぬ。本来ならば制止すべきでした。痛恨の極みでございます」


なるほど、と公爵は胸の奥で呟いた。つまり教国は、“非は認めるが責任は取らない”構え。


国家犯罪を個人の狂信に押し付ける、老獪な詭弁である。彼は一歩踏み出し、静かに言葉を紡いだ。


「では、我が帝国の帝民が殺されたことも、“信仰の熱”で片付けると?」


「哀しき誤解の果てに起きた悲劇でございます。神の声を誤って聞いた者どもが、狂信に走ったのです。我らもまた、心より悔いております」


「悔いなど、誰にでも言える」公爵の声は鋭く切り裂いた。


「よかろう。ならば帝国として要求を突きつける」


聖堂内の空気が一変した。貴族特有の威圧と、鋼の意志が言葉となって放たれる。


「第一に、襲撃に参加した者をすべて引き渡すか、教国自らが処分せよ。

 第二に、帝国領土を侵犯したことを認め、賠償金を帝国へ支払うこと。

 第三に、襲撃を受けたヴェゼル・パロ・ビック一行へ多額の補償を行うこと。

 第四に、主要国へ向けて今回の“教国側の越境行為”を正式に認める文書を送付すること。

 そして第五に――今後、教国が一方的に審問・断罪を行う権限を放棄し、帝国の許可なき越境を二度と行わぬこと」


聖職者たちはざわめいた。中には怒りを露わにする者もいたが、総主教代理は沈黙したまま頷いた。その頷きの重さに、聖堂の空気が凍りつく。


「……我らは神の代理として誓いましょう。

 襲撃に加わった者たちは、すでにその多くが死にました。

 生き残った総主教の息子は追放し、その従者は戦死。

 クルセイダーの騎士団長は、四肢を失い、生ける屍。

 もし帝国が望むなら――その身、すべて差し出しましょう」


「ふむ、まるで“神罰”でも受けたようだな」


ベントレー公爵は皮肉を滲ませて言い、ゆっくりと立ち上がった。


「帝国は報復を求めぬ。だが、秩序を乱す者には、神も法もないことを忘れるな。後の細かいことは帝国審問局に任せる」


「はっ!」


彼がマントを翻すと、教国の聖職者たちは誰一人として頭を上げられなかった。そのまま公爵は振り返りもせず、大聖堂を後にした。


帰国の途は長かった。


二ヶ月を経て、帝都に凱旋した公爵は、皇帝陛下の御前で教国との約定を報告する。


玉座の間には皇妃エプシロン、宰相エクステラ、第二騎士団長ブルックランズ、そして第一騎士団長テラノが居並んでいた。


公爵は淡々と報告した。教国はすべての要求を受け入れたこと。


襲撃は“狂信者の暴走”として処理され、教国本体は公式に越境を認めたこと。そして賠償金は帝国財務院に既に納付され、外交的には完全勝利に等しいと。


報告を聞いた皇帝は深く頷き、


「――よくやった、ベントレー公。これで戦火は避けられよう」


と穏やかに言った。だが、その隣で宰相エクステラの眉がぴくりと動く。


「陛下、恐れながら。これほどの大罪を“狂信者の過ち”で済ませるとは、帝国の威信に関わりましょう。周辺国に舐められましょうぞ」


ブルックランズも頷いた。


「然り、我ら軍は、教国の呼吸を止める用意があります。いま剣を収めれば、帝国は臆したと他国に見られるでしょう」


皇妃が静かに口を開く。


「戦で失われるものは、名誉より多いのです。ヴェゼル殿の想いも、ヴァリー殿の願いも、きっとそれを望まれぬのではないですか?」


沈黙が流れた。皇帝は玉座の上で深く息を吐き、やがて言った。


「――今回は、鉾を納めよう。帝国の威は保たれた。これ以上の血は、神も望まぬであろう」


宰相とブルックランズは、なお不満げに顔をしかめた。だが、主君の命には逆らえぬ。


「……御意」


短く、乾いた声が玉座の間に響いた。


それが、帝国と教国の「一時の平穏」を決定づけた瞬間だった。


だがその場にいた誰もが、心のどこかで理解していた。


この静寂は嵐の前のものだと。


そして、ヴェゼルの名は、なお帝都の議場で囁かれ続ける――


まるで、“秩序の中に潜む異端”の象徴として。


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