第273話 ブガッティとヴァリー
宰相の使者が帰り、応接室には静けさが戻った。
残ったのはフリード、オデッセイ、そして帝都から来た魔法省第一席ブガッティだけだった。燭台の炎がわずかに揺れ、緋色のカーペットの上に長い影を落とす。
オデッセイが一礼して、ゆっくりと顔を上げた。
「あらためまして、お久しゅうございます、ブガッティ様」
その声に、ブガッティは目を細めた。
「おお……あの、まだ幼さを残しておったオデッセイが。もう二児の母とはのう」
懐かしむような口調に、オデッセイは少しだけ肩をすくめた。
ブガッティは一転して真顔になる。老いた瞳に、わずかに湿りが差した。
「――お前さんが魔法省を辞める時、わしは何もできんかった。庇ってやれなんで申し訳なかった」
その言葉と共に、彼は静かに頭を下げた。老獪なブガッティが、頭を下げる姿など、帝都でも見られるものではない。
オデッセイは一瞬、息を飲んで、それから柔らかく笑った。
「遠い昔のことです。お気になさらないでください」
だがブガッティは首を振った。
「お前さんがあのまま魔法省におれば、この世界は全く違っておったじゃろう。帝国は……貴重な、次代の魔法省の頂を失ってしまったのじゃ」
「ご冗談を」とオデッセイは笑うが、ブガッティの目は笑っていなかった。
沈黙が流れ、老魔導士はふっと息をつく。
「――ヴァリーの墓に行きたいのじゃが」
オデッセイは頷いた。「では、ヴェゼルも呼びますね」
扉のそばに控えていた従者カムリに指示が飛ぶ。間もなく、ヴェゼルが姿を現した。
彼は先ほどの宰相の使者とのやりとりを奥の部屋で聞いていたらしく、深く頭を下げる。
「ブガッティさん、先ほどは……ありがとうございました」
ブガッティはうなずいた。
「話は後でじっくりとしよう。まずは――ヴァリーに会いにいかねばな」
その声は穏やかだが、胸の底に沈む想いが滲んでいた。
領館の脇にある小高い丘の上の小さな墓地。
冬が吹き抜け、地面に積もっていた雪が舞う。ヴァリーの墓碑には、可愛らしい花が新しく供えられていた。
ブガッティは黙って立ち尽くし、しばらく墓を見つめていた。やがて目を閉じ、しかし手を合わせることもなく、ただ静かに息を吐く。
「……では、行こうかの」それだけを言い、背を向けた。
応接室に戻ると、彼は深く腰を下ろし、ようやく口を開いた。
「先日、帝都で会ったヴァリーは――とても幸せそうであった」
ヴェゼルが顔を上げる。ブガッティは微笑みながらも、目尻をぬぐう。
「ずっと男っ気のない子でのう。だが、最後には好きな男のもとで見とられて逝ったのだから……最良ではなかったが、良しとせねばな」
フリードが黙してうなずき、オデッセイはそっと目を閉じる。ブガッティは椅子の背に体を預け、語り始めた。
「ヴァリーの母親はな、ある貴族に目をかけられのう。しかし母親の身分は側室にもなれぬ、庶民の出でな。だがヴァリーは鑑定の儀で魔法の適性が見つかった。するとその貴族の父親が手のひらを返して、ヴェリーを引き取りたいとな。母親は断ったそうじゃ。それではヴァリーは幸せになれぬであろうとの。しかしその母親はそのすぐ後に流行り病で逝った。しかし、孤児院の先生があの子の才を活かそうとわしに声をかけてくれたのじゃ」
淡々とした口調の中に、どこか懐かしさがにじむ。
「子のなかったわしは、我が娘のように育てた。……ただ、わしも妻もいない男だったでのう、魔法以外のことを教えられなかった。必然、あの子も魔法にしか興味を持たぬ娘に育ってしもうた。ただのう、昔から自分の出自を気にしていて、なるたけ誰にも話さんでくれと言われてのう……」
オデッセイの瞳がわずかに揺れる。ブガッティは続けた。
ヴェゼルの胸が痛む。
「だが――ヴァリーがヴェクスター男爵の娘の講師として働き始めたすぐ後に、退職願とともに手紙が届いたのじゃ」
ブガッティの声が、わずかに震える。
「“私の愛する運命の人が見つかりました。年は十七も離れていますが、私は幸せです。子が生まれたら、ブガッティ様のことを『じいじ』と呼ばせます”――そう書いてあった」
その言葉を聞いた瞬間、オデッセイは涙を拭った。フリードは天井を見上げたまま、何も言わなかった。
ヴェゼルは拳を握りしめ、俯く。
「……ヴァリーにとっては、志半ばでもあったろうが、お主と出会えて、幸せではあったのだよ」
ブガッティは深く頭を下げた。
「心から、親代わりとして礼を言わせてくれ」
その姿に、ヴェゼルは堪えきれず声を上げた。
「ヴァリーさんは自分の事を語るのをいつも躊躇していました。そんな幼少期があったのですね………………。俺は今でも思うんです……自分が、あの時、どうにかできたのではないかと。すぐにでも奴らを――殲滅していれば、ヴァリーさんは……!」
ブガッティは静かに首を振った。
「たらればを言ううちは、お主も確かに賢かろうが、しかし、まだまだ子供じゃのう」
老魔導士の声は柔らかく、しかしどこか痛みを含んでいた。
「わしのようになってしまえば、もう“あるがまま”を受け入れるしかなくなる。……じゃが、ヴァリーがあの手紙を出してきた時、引き留めておけばよかったと思う自分もおる。となると、わしもまだ、子供なのかもしれんのう」
そう言って、彼は小さく笑った。室内に一瞬の沈黙が落ちる。
「ヴァリーは常に前を向いておった。お前さんも、知っておるであろう?」
ヴェゼルは深く頷いた。確かに、彼の知るヴァリーはいつも笑っていた。年齢差などものともせず、真っすぐな言葉で想いを告げてくれた。
婚約が認められた日、彼女はドレスを着て、恥じらいながらも胸を張っていた。
――あの笑顔を思い出すと、胸の奥が熱くなる。
「……はい。ヴァリーさんは、いつも前を向いていました」
ヴェゼルの顔には、もはや迷いがなかった。その吹っ切れた表情を見て、ブガッティはようやく安堵の息を吐く。
「それでこそ、ヴァリーの愛した男じゃ」
老魔導士は優しく笑った。その時、ふと顔を上げて言った。
「――そういえば、妖精のサクラ殿はお元気かな?」
ヴェゼルは微笑み返す。
「はい。今、きっと部屋で昼寝をしていますので、連れてきます」
そう言って部屋を出ていった。
残されたオデッセイは、そっとブガッティの方を向き、静かに頭を下げた。
「……息子を、導いてくださって、ありがとうございます」
ブガッティは首を振った。
「導いたのではない。ヴァリーが――まだ、お主らの傍にいるだけじゃよ」
その言葉に、オデッセイの瞳が潤む。
燭火がかすかに揺れ、古い応接室の空気が、まるで過去と現在の境を溶かすように温かく満ちていった。




