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第272話 帝国 宰相の使者

冬の陽は低く、風は鋭かった。


昼をすぎても雪は止まず、領館の庭には白い静寂が敷き詰められていた。その静寂を、荒々しい蹄の音が引き裂いた。


鉄を噛むような重い響き。門番が叫ぶより早く、三十騎の帝国兵が雪煙をあげて領館に押し寄せた。


先頭には黒鷲の紋章を掲げた旗手。後ろに、黒塗りの馬車。屋根には雪が積もり、凍りついた鎖が揺れていた。


誰何(すいか)せよ!」


門番が槍を構えるも、先頭の兵は無視して、「帝国宰相エクステラ閣下の使者である!」


と怒鳴り、馬のまま門をくぐった。


許可も、礼もなく。その無礼は、貴族の領地ではあり得ぬ蛮行だった。


整えられた庭園は、たちまち馬蹄で荒れ、雪と土が混ざって汚泥と化す。屋敷の中では、ちょうど昼の休憩を取っていたオデッセイが息を呑んだ。


「……帝国の使者が、先触れもなしに?」フリードが椅子から立ち上がる。


「どういう了見だ。兵を三十も連れて、ただの伝令にしては物々しい」


やがて、玄関の扉が叩き割られるように開いた。吹き込む雪とともに、灰色の外套を着た使者が堂々と踏み込んできた。


その目には、尊大な光。まるでこの屋敷すべてを見下すようだった。


「ビック領主フリード殿、並びに嫡男ヴェゼル殿に告ぐ!」


声は、まるで罪人の名を呼ぶように響いた。


「帝国宰相閣下より直々の命である。ヴェゼル殿を直ちに帝都へ召集する。拒否は許されぬ!」


命令書を広げ、印章を突き出す。その態度は“招集”というより“連行”に近かった。


オデッセイが眉をひそめる。


「宰相閣下の命……ですが、先触れもなく、しかもこのような態度とは――」


「黙れ、女!」使者は怒鳴り返す。


「宰相閣下のご意志に貴様ら平民まがいの貴族が口を挟むな! 万年騎士爵風情が!」


その言葉に、室内の空気が一変した。怒気が走り、フリードの手が自然と剣の柄に伸びる。


「貴様……帝国の兵にあるまじき口だな」


低い声で言うと、使者の部下たちが一斉に剣の鞘に手をかけた。廊下の空気が、氷より冷たく張り詰める。


「あなた」静かな声でオデッセイが言った。


「ここで刃を抜けば、宰相の思うつぼですわよ」


その声には、妙齢の女性のものとは思えぬ冷静さがあった。フリードは唇を噛み、剣から手を離す。だが怒りの炎は消えぬ。


「ヴェゼルはまだ幼く、あの襲撃で心身ともに疲弊している。今は帝都に向かわせるわけには――」


「ならば引きずってでも連れて行く!」使者が遮るように叫んだ。


「罪人ごときに情けをかけるなと、宰相閣下はおっしゃっておられる!」


罪人――その一言に、フリードの目が鋭く光った。


「罪人……だと?」


その瞬間、剣が鞘から半ば抜かれる音が響いた。そして、使者の部下が剣を抜きかけた、その時だった。


「――待たれい!」雪を散らし、声が響いた。


屋敷の前庭に、ひときわ豪奢な馬車が滑り込む。年老いた白髪の男が下り、肩には雪が積もっていた。


「あなた様は……ブガッティ様……!」オデッセイが思わず息を呑んだ。


「ふぉっふぉっふぉ、間一髪間に合ったようじゃな」


老翁は杖をつきながら屋敷に入る。


使者が前に出て怒鳴る。「貴様、何者だ! 我らは宰相エクステラ閣下の――」


「黙らんか、若造」ブガッティの一喝に、場が凍った。


「わしは皇妃陛下の命により、この領館に参った。ヴェゼル殿の事情聴取は、帝都への召集ではなく、わしがこの地で直接行うこととなっておる」


「な、なにを……!?」使者の顔が引きつる。


「宰相閣下は、ヴェゼルとかいう小僧を帝都に 誤送 → 護送 せよと――」


「誤送 → 護送?」ブガッティの眉がぴくりと動いた。


「それは尋問ではなく、処罰を前提にしておるということか?」


沈黙。使者は答えられない。


ブガッティは従者に合図し、文書の箱を開かせた。中から、皇妃の封印が押された正式な勅書を取り出す。赤い蝋がきらりと光る。


「これが皇妃陛下直筆の命だ。ヴェゼル殿の聴取は、皇妃陛下の庇護のもと、わしが行う。帝都に連行する理由など、どこにもない」


使者の顔がみるみる青ざめていく。「そ、そんな……しかし宰相閣下の命が――」


「では聞こう」ブガッティは杖を軽く突いた。


「宰相と皇妃、どちらの命が優先されるのだ?」


「……皇妃様、です」かろうじて絞り出された声。


ブガッティはにやりと笑った。


「ならば下がれ。無礼者ども。この庭を荒らし、馬で踏み荒らした件も、皇妃陛下にしかと報告しておこう。それとな、請求書は宰相にわしが渡して、直接取り立てるから、確と心得よ!」


使者は青ざめ、踵を返す。馬に飛び乗ると、何も言わず雪煙をあげて去っていった。残されたのは、踏み荒らされた雪の庭と、静まり返った空気だけだった。


オデッセイが深く頭を下げた。


「助かりました、ブガッティ様。まさか皇妃様がこの件をご存じとは――」


「ふぉっふぉ、皇妃陛下は見ておられる。宰相殿の動きも、帝国の歪みもな」


ブガッティは杖をつきながら、暖炉のある間を見渡した。


「寒いのう……。早く火のある部屋に通してくれんか。それと、ヴェゼル殿と――サクラ殿にも会いたいわい。それと、まずは…………ヴァリーに……」


フリードが頭を下げた。「ええ、ぜひ。あの子らも、きっと喜びましょう」


その背で、雪が静かに降り続いていた。


白き大地の下で、帝国の陰謀と皇妃の眼差しが、静かに交差しようとしていた。

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