第270話 エスパーダとアトン02
湯けむりのあとに漂うのは、雪と薪の香りだった。
エスパーダは風呂場から戻る途中、屋敷の侍女たちの視線を感じて歩を早めた。白布に包まれた髪がまだ湿り、頬に温もりの名残が宿っている。やつれた頬には疲労の影が残るが、それでもなお、その姿には気品があった。
ビック領へ来るまでの道中、彼はまるで幽鬼のようだった。それを知るものがいたら、いまの彼が生きてここに立っていること自体、奇跡のように思えただろう。
侍女の一人が目を丸くし、思わず小声で「美しい方……」と呟く。エスパーダは照れくさそうに笑い、首をすくめて廊下を進んだ。
フリーダの古着を着せられているせいで、全体がぶかぶかだったが、足首は完全に出ていて、それでも布の清潔さと匂いに、久方ぶりの安らぎを覚える。
その後ろから、セリカに引っ張られながらアトンがやってくる。頭には大きなリボン、腰にもリボン、スカートはふくらはぎどころか、膝が見えそうなほど短い。スカートの中からはパニエがふんわりと見え隠れする。どう見ても、子供服である。
「セリカさま! この服、短すぎますっ!」
「可愛いじゃない、似合ってるわ」
「私、これでも十八歳なんですけど!」
「だからこそ可愛いのよ」
居間にいたヴェゼルがふと目を上げ、「……ゴスロリっぽいな」と呟いた。
アトンは意味がわからず首をかしげるが、その言葉がなぜかみんなの笑いを誘い、たちまち場の空気が和らいだ。
フリードが笑いながら近づいてきて、「おお、ちっこいの! 抱っこしてやる!」と言うや否や、両脇に手を入れてアトンを高々と持ち上げた。
「ひゃ、ひゃあああああっ!」
甲高い悲鳴が響く。アトンは真っ赤になって暴れるが、フリードはまったく気にしない。
アクティが駆け寄って、「おねーちゃんみたいにかわい! あしたからいっしょに、おべんきょうしようね!」と言えば、アトンは半泣きで「だから成人ですってば!」と叫ぶ。
その光景にオデッセイも思わず吹き出した。
やがて夕餉の支度が整い、一同は長い食卓を囲んだ。酵母菌の匂いがほのかに香る、ふわふわとした焼きたてのパン、温かなスープ、香ばしい魔物肉。どれもこの季節には贅沢なものだった。
はじめ、エスパーダもアトンも遠慮がちに口をつけていたが、二口、三口と食べるうちに、止まらなくなった。
「……このパン、ふわふわすぎです! はじめての食感です」
「ふわふわ、ですね……こんなパン、教国の上級なホテルにもありませんでした」
二人は夢中で食べ、気づけば皿は空になっていた。フリードが笑い、「よし、明日も焼こうな!」とアクティに声をかけた。
やがて夜も更け、暖炉の火が落ち着く頃、ヴェゼルが口を開いた。
「……さて。エスパーダさん、話をしませんか」
応接の間に移ると、そこにはヴェゼル、ステリナ、カムシン、カテラ、そしてフリードとオデッセイが座っていた。
エスパーダは席の前で一度深く頭を下げた。
「私は、あの時――教国の主教でした。たとえ私が知らなかった事とは言え、あなた方に許されぬ罪を犯しました。あの暴挙で双方多くの命が亡くなり、そしてどれほどの悲しみをもたらしたか……その責の一端は、私にもあります。どうか、一度、正式に謝罪させてください」
その声は、冬の夜に凍るように静かだった。カムシンが眉を寄せ、ステリナは俯き、カテラは震える唇を噛んでいた。沈黙の中で、ヴェゼルがゆっくりと立ち上がる。
「俺は、あの時、教国の聖職者は絶対に許さないと言いました。ヴァリーさんんの墓前でもそう誓いました。だから……あなたの謝罪は受け入れられません」
部屋の空気が一瞬、張り詰めた。
だがヴェゼルは続ける。
「でも、俺は――あなたの腕を、激情に駆られて落としました。あれは愚かでした。あなたを敵としてしか見なかった自分を、今は恥じています。……ごめんなさい」
その言葉に、エスパーダは目を伏せた。「ヴェゼルさん……」
ヴェゼルは真っ直ぐに彼を見つめた。
「だから――俺たちは、というかエスパーダさんは、俺に謝る必要はない。でも、こうしませんか。お互いを“監視”しましょう」
「監視……ですか?」
「もし俺が、人として、ヴァリーさんに顔向けできないようなことをしたら……その時は、あなたが俺を殺してください。迷わずに」
「……!」
オデッセイとアビーが息を呑み、フリードも思わず目を見開いた。
「そのかわり、俺も同じようにします。もしあなたが道を誤ったなら――俺があなたを殺します」
エスパーダはしばらく言葉を失い、やがて、かすかに笑った。
「奇妙な約束ですね。しかし……誠実だ」
「それが、俺なりの償いです」
沈黙が流れた。暖炉の火がパチ、と音を立てた。
エスパーダは深く息を吸い、静かに語る。
「ヴェゼルさん。この腕を失って、ようやく私は見えました。教国がどんな国だったか、父がどんな人間だったか。私は知っていたのに、目を背けていたのです。貧者への施しを“慈悲”だと信じていたけれど、あれは――高位の者の優越にすぎなかった。あなたに腕を落とされた時、ようやく本当の“痛み”を知った。だから、謝らないでください」
エスパーダは片腕を掲げ、かすかに微笑んだ。
「この腕は、贖いの印なのです」その言葉に、誰もが胸の奥で何かを掴まれた。
やがて、彼は続けた。
「ですが、あなたが私を“監視”すると言うなら、私も約束しましょう。あなたが道を誤った時、私は命をかけてあなたを止めます。殺せるかどうかはわかりません。ですが、それがヴァリーさんへの祈りになるのなら、私は全力であなたと戦います」
ヴェゼルは目を細め、ゆっくりと右手を差し出した。
「……じゃあ、これで契約成立ですね」
エスパーダは少し迷い、しかしやがて微笑み、その手を握った。二人の手が重なる。暖炉の火が照らし、その影が壁に映る。
「エスパーダさん。あなたは、これから俺の“側近”でいてくれませんか。俺にとっての先生であり、同じ罪を分かち合う仲間として」
「それが私の贖罪になるのなら、喜んで」そう言って、エスパーダは深く頭を下げた。
オデッセイは静かに頷き、フリードは豪快に笑い、アビーは「これでまた面白くなるね」と呟いた。
夜は深まり、雪は静かに降り積もる。
その外では、墓前の花が白く凍り、ヴァリーの眠る丘に、かすかな光が落ちていた。
そして、その光の中で、ヴェゼルとエスパーダの誓いだけが、静かに燃え続けていた。




