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第269話 エスパーダとアトン

 玄関の扉を押し開けると、冷気が室内へと流れ込んだ。ヴェゼル、オデッセイ、そしてその後ろにエスパーダと若い女性が続く。


 領館の中は暖炉の炎が揺らめき、木の香りと共に穏やかな温もりに包まれていた。だが、外から来た二人は雪に濡れ、まるで冬そのものを連れてきたかのようだった。


 その時、玄関の掃除をしていたカテラが顔を上げた。彼女は目を丸くし、手に持っていた布を落とす。


「――エスパーダさん? もしかして、エスパーダさんではありませんか?」


 驚きと懐かしさが入り混じった声だった。その声に、エスパーダは小さく息を呑み、ゆっくりとカテラの方を見た。


 以前よりもふっくらとした頬、柔らかな衣、穏やかな眼差し。かつて貧民街で飢えに震えていた少女の面影は、もうどこにもなかった。


 エスパーダはかすかに微笑み、低くつぶやく。


「……よかった。カテラ、ようやく安心できる生活が送れているのですね?」


 その問いに、カテラはぱっと花が咲くような笑顔で答えた。


「はいっ! 毎日がとても楽しいです!」


 その声を聞いた瞬間、エスパーダの目に柔らかな光が宿る。「……そうですか。よかった……」


 その小さなやりとりを見届けて、オデッセイが二人を応接室へと案内した。


 暖炉の前にはすでにフリードが座っており、くつろいだ表情で茶を飲んでいる。奥の方には、アビーとオースターが勉強をしていたようだ。そして、フリードの隣にオデッセイが腰を下ろし、来客を迎える空気が整った。


 エスパーダとアトンは、部屋の敷居を越えたところで立ち止まる。彼は深く頭を下げて言った。


「私たちは……この通り、汚れた身です。雪で濡れています。家具を汚してしまうので、立ったままでよいのです」


 だが、フリードは一瞬の沈黙のあと、豪快に笑った。


「なにを気取ってる! うちの家具はそんなに上等なもんじゃない。そこのソファなんざ、アクティもサクラもよく涎を垂らして寝てるくらいだ!」


 その言葉に、部屋の空気が一瞬凍りつく。フリードは隣からオデッセイに肘で突かれ、しまったと顔をしかめた。


(……しまった、サクラの名を出してしまった!)だが、幸いにもエスパーダの表情は変わらなかった。


 オデッセイは小さくため息をつき、微笑んで二人に座るよう促した。


「気にせずお座りなさい。火にあたれば少しは温まるでしょう」


 エスパーダとアトンは気後れしつつも、静かに腰を下ろす。暖炉の光が、濡れた衣を徐々に乾かしていく。オデッセイが穏やかに口を開いた。


「まず、あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」女性は姿勢を正し、落ち着いた声で答える。


「アトンと申します。もとは教国で、エスパーダ様に教えを乞うておりました。……ですが、エスパーダ様が教国を去られるとき、私もご一緒いたしました」


 「そう」とオデッセイが頷くと、場は順に自己紹介となった。フリードは言葉を選ぶように短く名を述べ、ヴェゼルもそれにならう。どこかぎこちない空気。教国と帝国、その隔たりは、まだ容易には消えない。


 そして、オデッセイが問いを投げた。「それで……なぜ、ここ地へ? 敵の情報収集ということでもないのでしょう?」


 その質問に、エスパーダは沈黙したまま俯いた。代わりにアトンが視線を受けて口を開く。


「……エスパーダ様は道中、ほとんど言葉を発されませんでした。ただ――ただ、『せめてヴァリー様に祈りを』とだけ……」


 その言葉が終わるより早く、ヴェゼルが立ち上がった。その声音は、氷を割るように鋭かった。


「……教国式の祈りなんて、やめてくれ!」


 部屋の空気が一瞬凍りつく。暖炉の火がぱちりと音を立てた。


 ヴェゼルの拳は震えていた。教国はヴァリーを奪った。その怒りは、雪のように時間では消えない。しばしの沈黙ののち、エスパーダがゆっくりと口を開いた。


「……祈りといっても、何かが変わるわけではありません。赦しを乞うつもりも、許されるとは思っていません。ただ……それしか、思いつかなかったのです」


 その声は掠れ、言葉の終わりに涙がこぼれた。雪のように静かに、床へと落ちる。それを見て、ヴェゼルの表情も揺らぐ。


「……教国の祈りじゃなくて、ただ……死者を悼む、それだけなら……俺は、拒まない……です」


 オデッセイがそっと立ち上がり、言葉を添えた。「では、ヴァリーの墓へ案内しましょう」




 領館の脇、小さな丘の上。そこにヴァリーの墓がある。雪の積もる季節でも寒風を避けられるよう、木製の庇が無骨ながら作られており、墓前には朝摘みの花が供えられていた。アクティが雪の中で見つけてきた花だ。


 そしてその隣には、――小さなかじり跡のあるクッキーが一枚、静かに置かれていた。エスパーダはその前に跪き、深く頭を垂れる。


 ただその場に佇み言葉のない祈りを捧げた。アトンも彼の背後に膝をつき、ただ静かに黙祷する。


 風が止み、雪の音だけが聞こえる。その時間は、十分にも及んだだろうか。


 ようやく、フリードが低い声で言った。「――そろそろ、家に戻ろう」




 暖かな館へ戻ると、フリードは軽く手を叩いた。


「よし、二人とも今日は泊まっていきなさい。体が冷えてるだろうし、すぐに風呂に入れ。……それに、正直言って臭いぞ!」


 そのあけすけな言葉に、アトンは顔を真っ赤にし、エスパーダは目を丸くした。フリードが笑うと、屋敷の空気が一気に明るくなる。


「カムリ! トレノ! こいつらを風呂へ連れてってやれ!」


 トレノがにやりと笑い、エスパーダの袖をつかむ。


「風呂は拒否禁止ですエスパーダさん。凍え死ぬ前に湯で溶けてください!」トレノの声に引きずられるようにして廊下へ消えるエスパーダ。


 途中、すれ違ったカムシンがニコッと笑い、手を振ると彼は苦笑しながら答えた。


「……カムシンも、すっかり元気になったようですね」その声には、どこか安堵があった。


 一方、アトンのほうは別の騒動になっていた。セリカとコンテッサとアビーが彼女を見て、目を輝かせる。セリカが頭をナデナデしながら話をする。


「ちっちゃくて可愛いわね! アトンちゃんは何歳なの?」


「まだ十二歳くらいかしら?」


「私よりちょっとお姉ちゃん?」


「えっ!? これでも十八歳です! もうとっくに成人してますっ!」


 その瞬間、アビーとセリカとコンテッサが目を合わせてニヤッと笑いながら彼女の両腕を取った。


「はいはい、成人の乙女でも拉致です! この家のお風呂は湯加減最高よ!」


 きゃあと声をあげるアトンを、三人はずるずるとアトンを風呂場へ連れ去っていった。


 ――その光景を見送りながら、オデッセイは静かに笑った。「……少しは、あたたかくなりそうね」


 雪の夜、赦しの灯は、確かに館の中でともっていた。

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