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第268話 エスパーダの来訪

 その年の冬は、例年よりも早く、雪が根雪になるのが早かった。


 ホーネット村の防壁では、白い息を吐きながら二十人ほどの職人兼兵士見習いたちが作業を続けていた。指揮を執るのはプラウディア爺。焚き火のそばを決して離れない頑固者?だが、その眼光は鋭く、年季の入った手つきで次々と指示を飛ばしている。


「そこ、土レンガの角度が違う、そっちはもう一度測れ!」


 弟子たちはその怒鳴り声に苦笑しながらも、黙々と手を動かす。雪に閉ざされる前に、門だけは仕上げておきたかった。


 その門の前では、パルサーの夫ガゼールが見張り台に立っていた。肩には雪が積もり、吐く息が白くかすむ。冬の冷たさが骨に染みるが、それ以上に、村を守る責任の重みが背にかかっていた。


 ――そのときだった。


 視界の端に、ひとりの長身の男とその後ろに小さい人が近づいてくる。足取りはゆっくりだが確かにこちらに歩いてくるのが見えた。そして門のそばまで来て止まる。


 汚れた聖職者の衣をまとい、左袖だけが風に揺れていた。そして、その背後には、小柄な女性がひとり。彼女もまた汚れた聖衣を身にまとい、体を小さく震わせていた。


 雪は深々と降り続き、二人の肩を白く覆う。 やがて、ガゼールが声をかけた。


「……何か、この村に用か?」


 しかし、返事はない。男は沈黙したまま、ただ立っている。風が衣の裾を叩く音だけが響いた。


 昼を過ぎても、彼らはその場を動かなかった。女性の唇は紫色に変わり、震えが止まらない。それを見かねたガゼールは、焚き火を指さした。


「こっちに火がある。少しでもあたった方がいい」


 しかし、男は首を振る。その動きは、凍った枝のようにぎこちない。女性にも声をかけると、彼女は小さく微笑んで答えた。


「お師様があたられないのですから、私も……このままで」その言葉に、ガゼールはため息をつき、やがて伝令を領館へ走らせた。




 伝令を受けたのは、ヴェゼルの母オデッセイだった。報告を聞いた瞬間、オデッセイは眉をひそめる。


「左腕のない聖職者……? 若い男と、その従者らしき女性……?」


 彼女の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。クルセイダー襲撃の時、戦場にいた教国の主教――エスパーダ。あの戦いの混乱の中で、息子ヴェゼルは彼の左腕を落とした。激情と憎悪に駆られた一瞬の判断。だが、後にわかったことは、エスパーダ自身が襲撃に関与していなかったという事実だった。そのことを、オデッセイも忘れてはいなかった。


 そして、静かに言う。「……ヴェゼルを呼びなさい」


 間もなく現れたヴェゼルは、報告を聞くや否や、顔を引き締めた。


「……その人、エスパーダさんだと思う」


 そう呟くと、彼は決意を帯びた目で母を見る。「母さん、俺が会いに行く」


 オデッセイは一瞬ためらったが、やがて頷いた。「行きましょう。あなたひとりではなく、私も一緒に」




 夕刻前、雪が風とともに舞う中、ヴェゼルとオデッセイは門へ向かった。そこにいたのは、報告の通り――長身で左腕のない男性と、その背後に立つ痩せた小さな女性。二人とも、雪にまみれ、まるで亡霊のように静かに立ち尽くしていた。


 ヴェゼルは一歩踏み出す。しかし、その足は途中で止まった。声をかけるのが怖かった。それでも、息を吸い、名を呼ぶ。


「……エスパーダさん」


 その瞬間、長身の男はゆっくりと顔を上げた。その目は、無の表情と静かな光をたたえていた。そして、何も言わぬまま、彼は雪の上に膝をつき、頭を垂れた。――地に額をつけるように。


 雪が音もなく降り積もる。白い世界の中で、ただその姿だけが際立っていた。


「……どういうつもりですか」沈黙を破ったのはオデッセイだった。だが、男は答えない。ただ、額を雪に埋めたまま、震える唇で何かを呟いた。声は風にかき消され、意味は届かない。


 代わりに、背後の女性が一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「エスパーダ様は……教国に戻られてすぐ、総主教様に聖職位をお返しになりました。そして、総主教様との親子の縁も断たれました。今は……教国とは、何の関わりもございません」


 その言葉に、ヴェゼルは息を呑む。雪に塗れ、衣はぼろぼろ、眼には赦しを乞う色すらない。ただ、沈黙の懺悔だけがそこにあった。


「……そう、ですか」


 ヴェゼルの声は、雪の中に溶けるように静かだった。彼はゆっくりと歩み寄り、かつて自らが断った左腕の跡に視線を落とす。あの時、憎しみのままに振るった力。その報いが、こうして雪の中に立っているのだ。


オデッセイは微笑を浮かべて言った。


「教国の人間でないのなら、拒む理由はありません。領館へご案内しましょう。しかし、エスパーダさんは総主教様の息子さんだったのですね」


 女性は深く頭を下げ、エスパーダの肩に手を置いた。エスパーダはゆっくりと顔を上げ、ヴェゼルを見る。その瞳には、言葉にならぬ哀しみが宿っていた。


「俺も……謝りたいことがある」ヴェゼルはそう呟いた。「俺は、あの夜、怒りに任せてあなたの腕を――」


「――いいのです」


 初めて、エスパーダが声を発した。その声は、雪解けの水のように静かで、透き通っていた。「それは、罰です。私が、無知のまま見過ごしてきた罪の……」


 ヴェゼルはその言葉を遮るように言った。


「それでも、あなたは本来関係なかったはずだ。なのに、俺は――」


 雪がまた一陣、風に乗って吹き荒れる。 沈黙の中、ヴェゼルは目を伏せた。


「……さあ、行きましょう」 オデッセイの一言が、すべてを包んだ。



 そして四人は、雪の道を領館へと歩き出す。雪明かりの中、ヴェゼルの肩に積もる白は、まるで悔恨を洗い流すように静かだった。


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