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第267話 皇妃エプシロンとブガッティ第一席

エクステラ宰相が帝都で密かに暗躍していたその頃、エプシロン皇妃は、彼の動きに異様な執着を感じ取っていた。


冷たい風が宮殿の回廊を吹き抜け、白いカーテンを揺らす。皇妃はその音を背に、机上に並ぶ報告書へと静かに目を落とした。


「……宰相は、ビック家――特にヴェゼルに対しての言動が、常軌を逸しているように感じるのよね」


声は低く、独り言のようであった。侍女たちはその気配に息をひそめ、やがて皇妃の手の合図で部屋を下がった。皇妃は深く息をつき、窓の外を見た。


帝都の尖塔群の先、灰色の空に陽が沈もうとしている。


「お父様のベントレー公爵や私に注目が集まっているのは理解しているわ。でも、今の帝国は……歪みを生んでいる。かつて周辺諸国を併合して拡大したその勢いが、今や重荷になりつつある」


皇妃は机上の報告書を指でなぞりながら続けた。


「併合した領地との格差、増える貧困層、集中する富と権力。力をゴリ押しして拡大ばかりを望む政治では、いずれ国は崩れてしまう。だからこそ――拡大と安定を交互に繰り返すべきなのよ」


誰に言うでもないその言葉は、静かに冷たい空気に溶けた。やがて、扉を叩く音がした。皇妃は顔を上げる。待ち人が来たのだ。


「入ってください」


ほどなくして現れたのは、白髪を丁寧に束ねた男――ブガッティ。帝国魔法省の第一席にして、知と節制の象徴とも呼ばれる人物だった。


「……皇妃様がお呼びとは、珍しいことですな」


「ええ。今日は、形式ばった挨拶は抜きにしましょう」皇妃が微笑むと、ブガッティは頷き、ゆっくりと腰を下ろした。


二人の間に、温かい茶が運ばれ、やがて侍女が下がる。


「エクステラ宰相の動きについて、あなたの見解を伺いたくて。私も本音で話します。ですから、あなたも飾らずに話してください。ここで話したことは――口外無用にします」


ブガッティは頷き、静かに眼鏡を外した。「承知いたしました。皇妃様がそう仰るのなら」


皇妃は目を伏せ、言葉を慎重に選んだ。


「クルセイダー襲撃事件――あの調査を、宰相自ら主導すると聞いたのです。けれど、彼の執念はもはや理屈ではありません。ビック家、いや、ヴェゼルに対しては、個人的な執着が強すぎます」


ブガッティの表情に、わずかな興味が浮かんだ。皇妃は、机に置いた指先を軽く動かしながら続けた。


「確かに、彼の噂を聞けば、誰もが“異端・脅威”と感じるでしょう。百対五千の戦を主導し、敵本陣に奇襲をかけ、将を生け捕りにした少年。妖精に愛され、妖精の方から婚約を望んだと言われる稀人。知育玩具、そろばん、酒、ガラス――商会が扱う新商品はすべて彼の発案という噂。そして今度は、クルセイダー三百を、旅の途中に吸収されたのに女子供十人程度だけで殲滅した噂」


皇妃は瞼を閉じた。「確かに脅威に映るでしょう。けれど、だからこそ理性のある者であれば“討つべき”ではなく、“取り込むべき”だと思うのです」


短い沈黙。


ブガッティが口を開く。


「皇妃様のご意見……もっともです。しかし宰相殿は、拡大こそが帝国の“存在意義”と信じている。その信念が、いまや信仰にも近い。彼にとってヴェゼル殿は、帝国の安定を脅かす象徴であり――つまり、異端の火種なのですな」


皇妃は小さく頷いた。


「……危ういわ。宰相たる者は、常に冷静に俯瞰し、清濁合わせのみ、私情を挟まずに全体を見なければならない。それを失えば、国は暴走する。視野の狭い、帝国のためだけの忠誠は、やがて帝国を壊すのです」


ブガッティは微かに笑みを浮かべた。


「そのお言葉、宰相殿に聞かせてやりたい。……皇妃様こそ宰相の器では?」


皇妃は苦笑した。「皮肉はやめてください。私は現実主義者なだけです」


二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。


やがてブガッティが湯気越しに視線を落とし、言葉を継いだ。


「今や帝都の街でも、このクルセイダー襲撃の話題で持ちきりです。女子供十人の旅一行に、クルセイダー三百が殲滅された――貴族は面白半分に語り、庶民はまたもや妖精の加護として語り草になっております。だが、真実を知る者は誰もおりません。そのうち、今までの噂のように、ヴェゼル殿周辺の良き噂は、また悪評によってかき消されるのでしょうな」


彼の声には、皮肉とそして、相反する教師のような静かな諭しがあった。


「私が会ったヴェゼル殿は噂とは異なり、理知的で冷静でした。……あの若さにしては、確かに恐ろしいほどの才覚ですな。もしも、帝国が彼を忌避するならば、是非我が国へ、と招聘に動く国があってもおかしくはありません」


皇妃はゆっくりと頷いた。


「ならば、あなたに頼みたい。――ヴェゼルから直接、話を聞いて真実を見極めてください。帝国が、正しく判断できるように」


その言葉に、ブガッティの眉がわずかに揺れた。


しばし沈黙。


そして、静かに言葉を落とした。


「……あの子のことを思うと、胸が痛みます。ヴァリーを失って以来、私はまだ今際の際の話も聞けず、墓前にも行けずにおりました」


皇妃は目を細めた。


「あなたはヴァリーを導いた恩師。彼女にとって父のような存在だったと聞きます。ならば今は、その弟子の婚約者を見守ってあげてください」


ブガッティは目を閉じ、しばらく思案するように息を吐いた。


そして、静かに立ち上がる。


「――承知いたしました。有給も溜まりに溜まっておりますし、彼との魔法談義も楽しみです。墓参りを兼ねて、ヴェゼル殿のもとへ向かいましょう」


皇妃はほっとしたように微笑んだ。


「会ったら、彼に伝えてください。帝都に出向く必要はありません。“事情聴取”などという名の、宰相の罠にかかってはなりません。あなたは私が庇護すると約束した者です。それを違えるようなことはいたしません。と」


その声音には、わずかに母の温もりがあった。


ブガッティは深く礼をし、静かに言葉を添える。


「では、私の名において――『私が目で見た正しいと思う』報告を、皇妃様にお届けすることを約束しましょう」


皇妃は頷き、窓越しに旅立ちの空を見上げた。


帝都の空は、冬の薄雲を裂き、遠くビック領の方角へ淡い光を投げていた。


その光は、まるで真実を探す導きのように――。

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