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第266話 エクステラ宰相の蠢動

遡ること数週間前、初冬の朝靄がまだ宰相府の尖塔を包んでいた。執務室の重厚な扉が静かに開き、鎧の音を立てて第二騎士団長ブルックランズが入ってくる。


彼の背後で扉が閉まると同時に、エクステラ宰相は筆を置き、部屋の侍従たちに短く命じた。


「……人払いをせよ」


足音が遠ざかり、部屋には宰相と騎士団長だけが残った。窓辺の光が薄く、二人の影を曖昧に揺らす。



彼は苛立ちを隠そうともせず、声を低くして言い放った。「宰相、話が違うではないか」


言葉は抑えていても、怒気は明らかだった。


「クルセイダーを引き入れ、あの万年騎士爵の嫡男を奴らが血祭りに上げる。――それを口実に、我が第二騎士団が“正義の討伐軍”として動く。教国との戦を起こし、帝国の武威を周辺諸国に知らしめる。そこまでは計画通りだ」


ブルックランズは拳を握り、低く唸るように続けた。


「だが、もしもあの小僧が教国に拉致されていたならば、帝国は身代金を支払い、ビック家に多額の借金を背負わせ、我らの掌中に収める。その上で、我が一族の娘を無理にでも嫁がせ、いずれ家督を奪う――そこまでが筋だった。今でこそあの家は“万年騎士爵”などと侮られているが、元は皇帝陛下直参の唯一の貴族。本来なら、帝国の誰もがその家名を羨むほどの名門だ。どちらに転んでも勝算はあったのだ。それがよりにもよって……」


ブルックランズは机を叩いた。「まさか三百のクルセイダーが、たかが女子供十人に全滅させられるとは!」


重苦しい沈黙が室内を覆う。


しかし宰相エクステラは表情一つ動かさず、淡々と筆を置いた。


「――この国は、常に敵を持ってこそ一つにまとまるのだ」


低く、しかし確信に満ちた声だった。


「帝国は他国を討ち、併合し、恐怖と栄光の中で生まれた。他国が我らを畏れ、貴族が外を見据えてこそ、内は静まる。もし平穏が続けば、内は腐る。民は贅を求め、貴族は互いを疑う。……帝国は“戦”によってしか、己を保てぬ国なのだ」


ブルックランズは鋭く睨み返した。「だからこそ、戦を起こしたかったというわけか」


「そうだ」と宰相は即答する。


「皇妃とベントレー公爵の派閥は、平和を望むあまり牙を抜かれた獅子だ。だが、彼らが“正義”の名で教国を責める構図を作り出せば、帝国は再び一枚岩となる。――それでこそ、この国は保たれる」


宰相の目が冷たく光る。


「そして――ヴェゼル・パロ・ビック。あの小僧は、皇妃派とベントレー公爵派の“象徴”になりかねん。あの年で百対五千の戦に勝ち、“妖精の加護”の噂をまとう。さらに、貴族どもが群がる新商品の開発者としても名を上げ、今度は異国のクルセイダー三百を、女子供十人で退けた。……そんな存在、貴族たちの理想を煽るには十分すぎる。いつかどこかで、誰かが彼を旗手として祭り上げる可能性もあるのだ。その芽は、早めに摘み取らねばならん」


ブルックランズは一歩前へ出る。


「だが、殺すだけなら帝国内で済ませればよかった。なぜ教国のクルセイダーを引き入れた?」


宰相はゆるく肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「簡単なことだ。帝国が自らヴェゼルを排除したと知れれば、皇帝の威信に傷がつく。“帝国が一介の騎士爵の子を恐れた”などと囁かれては笑いものだ。だが教国に“妖精を攫った貴族がいる”と吹き込めば、あの狂信者どもはすぐに飛びつく。彼らの信仰心ほど、扱いやすいものはない」


ブルックランズは冷笑した。


「……つまり、最初からヴェゼルを“誘餌”にして、戦の口実を作るつもりだったと」


宰相は頷いた。


「その通りだ。殺されても良い。捕らわれても良い。どちらに転んでも、ビック家は帝国に借りを作る。身代金を肩代わりしてやれば、あの領地は帝国の債務下に落ちる。後はゆっくりと、血統ごと手中に収めればよい。だが――唯一の誤算は、ヴェゼルが生き延びたことだ」


窓の外、風が尖塔を鳴らす。紙の端がひらりと舞い、静寂の中に冷たい音だけが響いた。ブルックランズは低く呟いた。


「……まるで、妖精に守られたように」


宰相の瞳が一瞬、揺らいだ。


「妖精など――所詮、噂だ」


しかしその声には、わずかな焦りが滲んでいた。椅子の肘掛を掴む指先が、白くなる。


宰相エクステラは、窓の外に広がる帝都の灯を見下ろした。長年、その灯の下で彼は糸を引き続けてきたのだ。


「……ブルックランズよ。噂とは剣より鋭いものだ」


低い声で呟く。


「ビック家は万年騎士爵。ヴェゼルは出来損ないの魔法使い。女誑しの若造――」


その言葉を口にすると、宰相は薄く笑った。


「すべて、我が“影の網”が流したものだ。愚かな大衆は笑い、貴族は信じ、真実は霧の奥に沈む」


ブルックランズは眉を寄せる。「……なぜそこまでして、あの小僧を貶める?」


宰相は答えず、指先で机を軽く叩いた。一拍の沈黙。風が塔を撫で、蝋燭の火がわずかに揺れる。


「英雄とは、まず笑い者にせよ」


静かに、しかし確信を込めて言い放つ。


「讃えられる前に、信じられぬ者にしておくのだ。そうすれば、誰もその真価を測れぬ。世は“恐れ”よりも“嘲り”のほうを好む。……だから、私はそれを利用したまでのこと」


だが、その声の底に、微かな震えがあった。宰相自身も気づいていた。


理屈では、ヴェゼルは帝国の秩序を乱す“異端”にすぎぬ。


だが、心の奥底では――違った。


「……あの少年には、何かがある」自らに言い聞かせるように呟く。


「知識、理性、計算、それらを超えた“理の外”の何かだ。まるで、我らが築いた秩序を壊すために生まれたような存在……」


ブルックランズは思わず息を呑んだ。宰相の瞳には、理性の光と狂気の影が同時に宿っていた。


「私は恐れているのだよ」


宰相は笑う――乾いた、老狐のような笑みで。


「恐怖は人を動かす。だから私は、恐怖を“正義”に変えねばならぬ。あの少年を排除するのは、帝国のためだ。そう信じることで、私は自分を許せる」


言葉の端に滲むのは、信念ではなく、もはや執着だった。


ブルックランズはその眼差しを見て悟る。


――この男は、国家のためにではなく、“ヴェゼルを屈服させるため”に国家を動かしている。


宰相は静かに言い切った。


「いずれにせよ、あの家は帝国の膝下で頭を垂れるか、さもなくば滅ぶ。どちらに転んでも、理の外に立つ者など、生かしてはおけぬ」


その声音には、冷たく光る狂信があった。


ブルックランズは無言のまま一歩下がり、胸の奥にわずかな寒気を覚えた。


――宰相エクステラ。


帝国を束ねる男のその心は、もはや「政治」ではなく、「恐怖」に支配されていた。



宰相は息を吐き、言葉を継ぐ。


「あの少年のせいで陛下から閑職に回された。このまま黙っているわけにはいかん。今回、ヴェゼルへの事情聴取――帝都招聘の使者は私が送った。どんな手を使ってでも、あの小僧を帝都に連れて来い。……二度と、あの名を帝の耳に届かせぬようにな」


その声は、もはや冷静ではなかった。長年の策士の声に、初めて焦燥が混じる。ブルックランズは静かに敬礼し、踵を返す。


扉が閉まる直前、宰相の小さな独り言が聞こえた。


「――妖精など、いない。いないのだ……」


そして再び、冬の風が塔を打った。まるでその否定の言葉を、嘲笑うかのように。

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