第264話 お風呂のその後で
そして、夕食と団欒後、ヴェゼルは長い一日を締めくくるように湯殿へと向かった。冬の外仕事のあとに浴びる湯ほど、幸福なものはない。前世でも今も至福のひとときだ。
湯気がふわりと立ちこめ、石の壁を柔らかく包み込む。ヴェゼルは湯桶を手に取り、髪を洗い、体を洗い、ゆっくりと湯船に身を沈めた。
肩まで湯に浸かると、じんわりと疲れが溶けていく。
――防壁づくり。腕は重く、手はかすかに痺れている。
「……やっぱり、冬の外での防壁作りって骨が折れるなぁ」
そう呟いて、湯気の中で小さく息をついた。しばらく湯船の中でぼんやりする。頭に浮かぶのは、あれこれ仕事の段取り。
「あれも片付けて、これも整理して……いや、今は『無』になろう」
そう決めて再び目を閉じる。気づけば、手のひらは皺だらけになっていた。
湯から上がり、髪を拭きながら脱衣所の戸を開ける。
――そこにいたのは、いつものトレノではなく、なぜかランツェだった。
「湯加減はいかがでしたか? ヴェゼル様! お体をお拭きしますね!」
「え、ちょっ……ランツェ!? いや、自分で拭くから!」
慌ててタオルを手に取るヴェゼル。しかし、ランツェはぴたりと一歩も引かない。
「ですが、私は侍女です! ご主人様のお世話をするのが務めです!」
「そういう問題じゃないってば! しかもランツェはアビーの侍女でしょ!」
「そうですが! ヴェゼル様の侍女に『も』なるために、今は修行中なんです!」
湯気の中、押し問答が白熱していく。声が大きくなり、外を通りかかったアビーの耳に届いた。
「――ランツェ! またヴェゼルに押しかけてるの!?」
怒声とともに扉が開く。
「うわっ!? アビー!? ちょ、ちょっと待って!」
ヴェゼルが慌ててタオルをつかむも、焦って手を滑らせ――ひらり、と床に落ちた。湯気の向こうには、まっ裸のヴェゼル。
数秒の沈黙。
そして、ふたりの視線が一点に吸い寄せられた。
「……けっこう、ヴェゼル様って、子供なのに逞しいのですね」ぽつりとランツェが呟く。
次の瞬間、湯殿の空気が凍りついた。
「どこ見てるのよ、このエッチ侍女!!」
「エ、エッチって!? そんなつもりじゃ――」
「いやいや、俺が言いたいのはそこじゃない!! なんで二人して入ってくるんだよ!!」
ヴェゼルが顔を真っ赤にして叫ぶ。湯気がもくもくと舞い、場はすでに修羅場だ。
「もういい! いつも通りトレノに頼むから、二人とも出てってくれよ! お願いだから!」
「おーい、トレノ! なんでトレノじゃないんだよ!!」
ほどなくして現れたトレノは、小さく肩をすくめながら事情を説明した。
「すみません……ランツェが、どうしてもお世話したいって……」
「普通は断るでしょ!? ………………まぁ、トレノにはまだ……荷が重いのか…」
ヴェゼルはため息をつきながらも、もう脱力していた。
怒鳴られた二人は、しぶしぶ脱衣所を出る。
廊下に出ると、ランツェがぽつりと呟いた。
「他の方はどうか知らないのですが……でも、本当にヴェゼル様は、あの……逞しかったですよね」
アビーはなぜか視線をそらしながら、静かに頷いた。「……まあ、否定はしないわ」
二人の妙な連帯感。
廊下の影でその様子を見ていたアクティが、口元をにやりと歪める。
「ふふ……おにーさま、またモテてる……?」
その騒ぎを、応接間でくつろいでいたオデッセイとフリードも耳にしていた。二人は顔を見合わせ、そろって苦笑する。
「また、ヴェゼルの“アレ”が増えるのかしらね」
「オデッセイ、その言い方が紛らわしいって……」
フリードが笑いを堪えきれず、オデッセイは紅茶を口に運びながら肩をすくめる。
「“スケコマシ”なんて言われてるけど……この調子だと、ほんとに伝説になりそうね。ヴェゼルの周りには、なぜか積極的な子が集まってくるようね……ヴェゼルが積極的に女の子に言い寄っているわけじゃないのに」
「本人は真面目だからな。まあ、災難……いや、男としては幸運なのか?」
その背後で、アクティがぽつりと呟く。「おにーさま、ほんとに……しょうらいが、しんぱいだなぁ…」
その夜。
ヴェゼルの部屋からは、ため息混じりの声が漏れていた。
「……もう、どうしてこうなるんだよ……普通は逆だろ、ラノベのラッキースケベって……。まあ、まだ子供の体だから良かったけど……でも、好きな子に裸を見られるのは、なんかショックだなぁ……」
隣で大きくなったサクラが、ヴェゼルを抱き寄せながら小さく笑う。
「女の子にモテるのも才能よ? 婚約者、あと何人増えるのかしら?」
「やめてよサクラ。からかわないでよ……サクラが言うと本当に増えそうで、怖いよ……」
外は冷たい風が唸り、雪の気配が空を覆っていた。だが、領館の中だけは――妙に生暖かかった。




