第260話 防壁をつくろう どうして出てこないの?
三日目――
朝霜が地面を白く覆う頃、ヴェゼルは膝をつき、息を白く吐いた。吐息がほんのりパリパリ音を立てて凍る。冬の空気は、まだ眠そうに村を包んでいる。
「収納……からの、共振位相。」
掌から低く響く振動が走ると、土がじわりと震え、粒子がうねるように吸い上げられていく。しゅん、と乾いた音を立て――ぽん、とひとつの土レンガが誕生した。
「一度に五平方メートルで……三十センチ四方が三十五個か。」
隣でメモを取っていたアビーが青ざめ、筆を落とす。
「え、えっと……計算すると……全部で四万個……?」
「そう。つまり、合計約千四百回……」
「ひ、ひぃぃっ!? 魔力の前に腕が壊れる! 手が凍るっ!」
ヴェゼルは乾いた笑いを漏らす。指先が凍えそうでも、掌に魔力を流すとほのかに熱が立ち上る。最初のうちはまだ賑やかだった。アビーとランツェとサクラが全力で応援してくれる。
「がんばれーヴェゼルー!」
「愛と地道のレンガ積みよー!」
「よっ、建設童子ー!」
サクラは小旗まで作り、得意げに振る。ヴェゼルは苦笑しつつも手を止めない。
――一日目、四千個。
――二日目、さらに四千個。
――三日目、さらに四千個。
日が傾くころ、ヴェゼルは地面に座り込む。肩で息をし、掌は真っ赤。初冬の風が指先を刺す。
「……あぁ、まだ半分も終わってない……」
アビーが心配そうに尋ねる。「ねぇ……領館に戻ったら、体をほぐしてあげたほうがいい?」
「いや……魔力が抜けて……動けないだけだから……」
「じゃあ、サクラちゃんお願い!」
「ふふん、任せて! 私は“闇の癒やし妖精”だからね!」
サクラが胸を張り、ヴェゼルの背中をぱんぱんと叩く。
「い、痛い! 叩いてるだけだって!」
「えっ、癒やしってこういうのでしょ!?」
「違う! なんでそうなる!俺はそういう趣味はないから!!」
アビーは額を押さえ、ランツェは遠くを見つめる。焚き火がぱちぱち音を立て、オレンジ色の光が霜の地面に揺れる。遠くでグロムが腕を組んで呟いた。
「……地獄のレンガ工場だな。超邪悪な職場だ。」
夕日が村の外れのレンガ山を赤く染める。すでに積み上がった数は一万個。だが、吐く息は白く、指先は凍え、頬は痛いほど赤い。
「……冬の空気って、こんなに冷たかったっけ……」
「ヴェゼル様、鼻……真っ赤です」
「仕方ないよ! 鼻が赤いのはは生きてる証拠だ!」
アビーはくすっと笑い、ランツェは見守り、サクラはレンガの上であくびをする。ヴェゼルは夕空を見上げ、灰色の雲の隙間に光る太陽を見る。だいぶオレンジに染まってきた。
――まだ終わらないけれど、形にはなっている。胸の奥で、少しだけ確信が灯る。
「よし……次だ。」
冷えきった初冬の空気の中、ぽん、ぽん、と土レンガが生まれる音が続く。
薄く積もった霜を割るように、魔力の振動が地を震わせた。吐く息は白く、頬を撫でる風はすでに雪の匂いを含んでいる。
「……っ、寒い。もう土のほうがあったかい気がするな……」
ヴェゼルは鼻をすすりながら、手のひらをこすり合わせた。
――そして日が沈む。風はより冷たく、地面は凍り、頬はひりつくように痛い。作業を終えたヴェゼルがようやく腰を上げると、指先の感覚はほとんど残っていなかった。
「……帰ろう。暖炉が俺を呼んでる」
トレノとアビーとランツェが荷物を持ってくれて、みんなで領館へと戻った。
暖炉の前に腰を下ろすと、火のぱちぱちという音がまるで天の音楽のように思えた。
「はぁ……生き返る……」ヴェゼルは両手を差し出して、ほっと息を漏らす。
けれど、手の甲が妙に痒い。見ると、赤くぷっくりと膨れている。「……あ、しもやけだ」
「冬の風物詩ね」アビーが紅茶を差し出しながら平然と返す。
「いや、風物詩で済まさないでよ」
「じゃあ火の魔法であっためましょうか?」
「やめろてよ、焦げるちゃうよ」
そのまま全員で笑い合い、ようやく一息つく。
「今日はあったかい夕飯を食べて風呂び入って……サクラを湯たんぽ代わりにしてさっさと寝よう……」
「ふふん、私をどう扱うつもりなのよ!」
サクラがふわりと肩に降りて、偉そうに腕を組む。
「サクラがいると夜はあったかいんだよ。本当に助かる。一部が涎で濡れるけど……」
「“涎”とか言うなぁ!」
その夜――。
布団に入ったヴェゼルは、すぐに睡魔が襲い、サクラの温もりに包まれて眠りについた。
外はすでに小雪がちらつき、静かな夜の帳が落ちていく。
だが、領館の夜は静寂だけでは終わらない。
――ギィ、と扉の軋む音。
小さな黒い影が、音もなく忍び込む。
「……ヴェゼル様、少しだけ、少しだけでいいですから……」
ランツェだった。一人寝の冷たい布団に耐えられず、そっとヴェゼルの隣へ。サクラを足元に押しやり、器用に体を潜り込ませる。
「うー、あったかい……もう布団から出たくない……」
ヴェゼルの腕を枕に、そして手を移動させて腰に添え、満足そうに眠りに落ちた。
サクラがもぞりと動くがどうやら危険を察知しない限りは目覚めないようだ。
翌朝。
アビーは、いつもの時間に目が覚めたが、普段起こしに来るランツェが今日は来ない。布団の中で首を傾げた。
「ランツェ? 今日は起こしに来ないのね……」不審に思い、寒い中、急いでランツェの部屋を覗くと布団は冷えきっている。
「……まさか、また?」そして、そっとヴェゼルの部屋の扉を開ける。
見えた光景に、アビーの目が見開かれた。ヴェゼルの腕の中に、すやすやと眠るランツェ。
そして足元には、枕に仰向けで寝ているサクラ。
「――ちょっと!? ランツェ! ヴェゼル! どういうこと!」
「んぁ……なに騒いで……あ、アビー……おはよう……」
「おはようじゃないわよ!!ヴェゼル!」
わたわたと目を覚ましたヴェゼルが、寝ぼけ眼で事情を理解するより早く、アビーの声が館中に響いた。
「私だって、ヴェゼルと寝たいのを我慢してるのに、なぜランツェばっかりヴェゼルと寝てるのよ!」
「これは、あの、不可抗力で――」
「不可抗力で一緒に仲良く寝るなんてどこの世界にあるのよ!」
ランツェは布団の中からひょこりと顔を出し、か細い声で言った。
「……あ、おはようございます。アビーお嬢様……一人寝は寂しくて……」
結局、ランツェは午前中ずっと正座で反省。
ヴェゼルは苦笑しながらも、また重い足を引きずり作業現場へ。
そして、冬の日差しが差し込む食堂では、いつも通りの賑やかな朝が始まる。
アビーの説教、サクラの文句、ランツェの反省。
――そんな騒がしくも温かい初冬の朝、領館にはまた、笑い声が戻っていた。




