第259話 防壁をつくろう ドアを開けて
領館のドアを開けて外に出ると、朝の光が斜面を滑り、領館の庭に金色の輪を落としていた。
いつものように、朝食と剣の鍛錬を終えたヴェゼルは、息を整えながら木陰に立つ。すると、すかさずランツェが駆け寄り、柔らかな布を差し出した。
「ヴェゼル様、お疲れ様です。こちら、汗を……」
手際よく差し出されるタオル。まるで風が動くより先に察しているような見事な気遣いだった。ヴェゼルは苦笑しながらそれを受け取り、首筋を拭う。
「ありがとう、ランツェの気配りはありがたいよ」
「い、いえっ。私、こういうのが得意で……!」
ランツェは照れくさそうに笑ったが、その横でアビーがむっと頬を膨らませていた。彼女はフリードに短剣の稽古をつけてもらっていたところだった。
もともと魔法一本で通してきたアビーだが、最近は「自分の身くらいは守れるように」と言い出し、朝の鍛錬にも加わるようになっていた。そのアビーが、稽古を終えてヴェゼルのもとへ寄ってきた瞬間――。
「アビー様も、お疲れ様です。こちら、タオルをどうぞ!」
ランツェはまったく同じ笑顔で、同じ角度で、同じタイミングで差し出した。だが、アビーの目は一瞬で曇り、じとりとした視線に変わる。
「……ランツェ、ありがとう。でも、ヴェゼルのお世話をするのが本当に嬉しそうね」
「えっ!? い、いえっ! そんなことはないと思います!」
両手を振って必死に弁解するランツェ。その慌てっぷりにヴェゼルは肩をすくめる。
「まあまあ、朝からそんなことで争わないでね」
「争ってませんっ!」とアビー。
「争ってませんっ!」とランツェ。
見事にハモった。庭にいたフリードが「ふむ」と低く唸り、オースターは遠くからクスクス笑っている。
――いつもの日常だった。
一方その頃、グロムとフリード、そしてコンテッサは、すでに村の外れで縄張りを始めていた。円形に張られた縄が、朝露に濡れて銀の線のように輝いている。
鍛錬の後、いよいよ土レンガ作り初日。今日の主役は、ヴェゼルだ。今日ははじめなので、フリード、グロム、コンテッサが様子見に来ていた。
「さて、今日は土レンガの生成からだな」彼は袖をまくり、膝をついて土に手を置いた。土に手を置かなくてもできるのだが、手を直接地面に置いた方が、魔力の消費が抑えられるのだ。
トレノとアビーがその脇に立つ。普段はヴェゼルのポケットにいるサクラだが、今日は作業が多いのでアビーの胸ポケットに預けられている。
「ほんとに一日で何千個も作れるの?」とアビー。
「多分………ね」ヴェゼルは苦笑する。
「まあ、やってみないと分からないよ」
「よし、じゃあ始めるか」空気が一瞬、緊張した。
ヴェゼルの掌から光が走り、低く地鳴りのような振動が地面に広がっていく。
「まずは………収納……共振位相――展開…」
掌の下の土が波打ち、ふっと沈んだかと思うと、半径五メートルほどの地面が一瞬で消えた。その空洞から微かな風が吹き上がる。
フリードたちが見守る中、ヴェゼルは深呼吸し、今度は逆方向に力を流した。
――ドゥン、と低い音。収納箱から湧き上がるように、滑らかな土が押し出されていく。
それは、波のように流動しながら固まり、次の瞬間には寸分の狂いもない平面を描いていた。
「……おお」最初に声を漏らしたのはグロムだった。
二メートル幅、高さ五十センチの土台。まるで大地そのものを切り取って積み上げたような出来栄え。グロムが上に乗ってみても、微動だにしない。
「これは……焼きレンガよりも硬いかもしれんな」
「まさか一度でここまでやるとは」とフリードも感嘆の息を漏らす。
アビーがぱちぱちと手を叩く。「すごい! 地面が生きてるみたい!」
ヴェゼルは額の汗を拭き、少し照れたように笑う。
「でも、これを何百回も繰り返すんだよ。根気勝負だな……」
「じゃあ、私もカウント係になる!」
「私は応援係です!」とランツェがどこからともなく現れた。
「ランツェ、いつの間に……」
「えへへ、ヴェゼル様の様子が気になって」
アビーの眉がぴくりと動く。
そのまま「……じゃあ、私は監視係」と、にっこり笑った。
トレノは小声で「それ多分、監視じゃなくて牽制だな」と呟いたが、聞こえなかったことにした。
日が高くなるにつれ、ヴェゼルは黙々と魔法を繰り返した。土を抜き、形を整え、滑らかに積み上げていく。
作業の合間にアビーが水を差し出し、ランツェがタオルを渡す。そのたびに二人の視線が交錯し、微妙な静電気が走った。
昼過ぎには、すでに円の半分が完成していた。陽光を受けた土台は淡い琥珀色に光り、まるで一枚の巨大な陶器のようだ。
「信じられんな……一週間かける予定だったものが、一日でこれか」とグロム。
ヴェゼルは額を押さえながら笑う。
「いや、さすがに今日はもう限界。これだと明日で終わるかな」
アビーが手を握りしめる。「ヴェゼル、本当にすごいよ。でも無理しちゃだめだからね」
「わかってる。……ありがとう」
ランツェが横でヴェゼルの服をやさしく掴み、寄り添いながらにっこり微笑む。
「やっぱりヴェゼル様は、すごいですね。かっこいいです!」
「……なんか、ランツェ、それ狙って言ってる?」
「えっ? な、なんのことですか!?」
アビーが再び頬をぷくっと膨らませる。トレノが肩をすくめ、あらぬ方を見て「今日も平和だな」と呟いた。
そして翌日。
ヴェゼルは残りの半分を一気に仕上げた。最初の予定――一週間かけるはずだった作業は、わずか二日で完了したのだ。
グロムが壁を叩くと、まるで石のように硬い音が返る。「……こりゃ、強力な魔法をぶっ放しても壊れんぞ」
「そんなに?」とアビー。
フリードが思わず、「見事だ、ヴェゼル。壁の石工職人になった方がいいんじゃないか!?」
「父さん、それは褒めすぎだよ」
村中がその光景を見に来ていた。子どもたちは目を輝かせ、泥だらけになって走り回りながら叫ぶ。
「ヴェゼル様が地面から壁を出したー!」「ほんとに! 地面が動いたんだよ!」
ヴェゼルは照れくさそうに頭をかき、苦笑する。
アビーとランツェはその横で、それぞれ誇らしげに胸を張っていた――どちらがより“誇らしげ”だったかは、見た者の解釈に任せるとして。
こうして、ホーネット領の防壁工事はの基礎部分は予定より五日も早く完了した。
だが、その裏で村人たちが語り継ぐことになるのは、たぶん「壁の魔法」よりも――
「さすが、ヴェゼル様だな。また新しい婚約者かな」という………………。




