第257話 さすにい!×2
みんなを応接間に誘い、ふかふかのソファに体を沈める。磨き上げられた木の床と、壁際に置かれた観葉植物がやわらかい陽光を受けていた。
まずは、ヴェゼルのポケットにいたサクラをランツェに紹介する。しばし驚いたが、前からバーグマンとアビーに聞いていたのか、すぐに納得してくれて口外無用にも同意してくれた。
カップの音とともに、かすかな紅茶の香りが漂っている。軽い挨拶のあと、バーグマンが口を開いた。
その声音は低く落ち着いていて、まるで家族会議の始まりを告げる鐘のようだった。
「アビー、どうじゃ? ビック家のみなさんには、きちんと可愛がられておるか? 特に――婿殿には、のう?」
突然の名指しに、ヴェゼルは椅子から落ちそうになった。背筋を正し、妙に真面目な顔をつくる。
アビーは咳払いをひとつ。そして、やわらかい微笑みを浮かべながらも、どこか含みのある声で答えた。
「うん。ここは第二の家みたいで、住み心地もいいし、みんな親切にしてくれてるわ。オースターも勉強をきっちり見てくれるし、勉強相手もヴェゼルが一緒だからやりがいもある。それに……ヴェゼルにも、可愛がられていたわ。――さっきランツェに会うまではね!」
最後の一言だけ、空気がピリッと張り詰めた。
ヴェゼルは「うっ」と短く呻き、視線をそっとテーブルに落とす。応接間の全員が、ほぼ同時にアイコンタクトを交わした。
(……アビーには、しばらく逆らわないほうがいいな)
全員の心が同じ方向を向いた、奇跡の一瞬である。そんな微妙な空気を察したのか、執事のカムリが絶妙なタイミングで紅茶を運んできた。
アビーの前にも一杯。オデッセイ、フリード、バーグマン――それぞれの前にも香り高い一杯。まずはフリードが一口飲み、満足げに頷いた。
「うむ、香りがいい。おい、皆もどうぞ」
まるで乾杯の音頭のように勧められ、全員がカップを手にする。そして――ヴェゼルの前に、なぜかランツェが直々にやって来た。
両手でカップを掲げ、膝を折り、恭しく頭を下げる。「どうぞ、ご主人様!」
その瞬間、応接間がぴたりと凍った。アビーの目がすうっと細くなる。
「……ランツェ?」
「はいっ! ご主人様に、直接お渡ししたくて!」
「ご主人様は“私”よ!」ピシッという音が聞こえた気がした。
ランツェは反射的に背筋を伸ばし、バーグマンは両手を合わせて苦笑した。
「すまんのう。アビーとオースターと、ランツェの三人をしばしお世話になるでな……」
フリードが大笑いした。
「バーグマン殿とうちは家族も同然だ! 気にするな! それにアビーちゃんなんて可愛いもんだ! うちの女衆のほうがよほど怖い、なぁオデッセイ?」
「ええ、そうね。あなたの“娘”も含めてね」
妻の笑顔にこめられた圧を感じ、フリードの笑顔が凍る。その空気をすかさず読み取り、オデッセイが会話を切り替えた。
「ところで、先ほど伝えたい情報があるとおっしゃっていましたね?」
「うむ。実はのう――」
バーグマンは深く息をつき、静かな声で語り始めた。
「我らの寄り親、コンフォート領の当主カルディナ・フォン・ヴァンガード辺境伯が倒れられたらしい。命に別状はないが、半身が麻痺し、言葉も難儀するほどのようじゃ。今はほぼ隠居で、息子のウラカン・パロ・ヴァンガード殿が実務を取り仕切っておる。来春にも襲爵することになりそうじゃ」
部屋に静寂が落ちる。遠くで時計の音が「コツ、コツ」と響いた。
(きっと脳梗塞かな……)と、ヴェゼルは心の中で呟いた。
フリードが懐かしそうに目を細める。「ウラカン殿か……」
「父さん、面識が?」とヴェゼル。
「あるとも。子供の頃、年一回あった寄子たちの集会でな。当時は毎年、競技会が開かれていて、そこでウラカン殿と戦った」
「おお、因縁の相手というやつですね」とルークスが口を挟む。
「まぁ、そんなところだ。あの方は、当時は子供ながらに“天才少年剣士”と呼ばれていた。だが試合前に、“万年騎士爵風情が”とぬかしおってな……」
フリードの拳が静かに握られた。「……ぶった斬った」
アクティが椅子から乗り出した。「さすおと! かっこいぃ!」
その声で張り詰めた空気が一気に緩む。
「いやいや、そういうのは褒めるところじゃないわよ」とオデッセイが頭を押さえる。
バーグマンは肩をすくめて笑った。
「まあ、当時は“上位爵には手心を加えよ”という風習もあったが、フリード殿は一切無視しておった。まさに無双状態じゃったわ。わしは年上で参加できなかったが、もしも参加しておったら、足がすくんどったじゃろうの」
場に笑いが走る。フリードは懐かしそうに言った。
「俺の親父が言ったんだ。“戦いに手加減はいらん”ってな。だから剣を真っ二つにしてしまってな。あいつ、泣きながら剣を投げ出したよ」
「さすが父さん、脳筋の血筋ですね……」とヴェゼルが呟く。
笑いが一巡したあと、バーグマンが重々しく言った。
「ウラカン殿は公平な方じゃが、フリード殿がらみになると、どうしても意固地になるようでのう。子供の頃のことを、まだ引きずっておるのかもしれん。来年の総会、無事に終えられるとよいがのう」
その言葉に皆が頷く。
「そうじゃった、思い出したわ」バーグマンが膝を叩いた。
「来年の総会から、競技会がまた毎年開催されるようじゃ。魔法は対戦ではなく“発表”の形式になるそうじゃのう。婿殿はどうするのじゃ?」
ヴェゼルがため息をついた。
「……あまり参加はしたくないですね。これ以上目立ちたくもないし」
バーグマンは豪快に笑う。
「たしかにのう。これ以上目立ってまた女の子が寄ってきたら、アビーも気が気でないじゃろう。ランツェなんぞ、ここに来て十秒もしないでで落とされたからのう! わっはっは!」
「お父さん!」アビーが即座に立ち上がった。
なぜかヴェゼルまで一緒に睨まれる。(な、なんで俺まで!?)
確かに――ランツェの件については、『ほんの少し』心当たりがある。頭を撫でた。顎の下も撫でた。『お尻』じゃなく、尻尾付近もトントンした。
前世の猫知識が無意識に発動していたのだ。(猫は頭と顎下を撫でるもの……そう、悪気はなかったんだ)だが今それを言えば火に油である。沈黙が最善。
そんな折、香り立つ紅茶を飲み干したヴェゼルのカップが、空になった。その刹那、音もなくランツェが再登場する。
「おかわりをどうぞ、ご主人様」
滑らかな動き。完璧な角度。
――距離が近い。
顔が、ほとんど触れる距離にある。ヴェゼルはまたもや反射的に手を伸ばした。
ランツェの頭を撫でてしまった。なでなで。なでなで。なでなで。一度撫でたらもう止まらない。今度は首筋に手が伸びかけ――
「ヴェゼル! その手!!」アビーの一喝。空気が凍結。
ヴェゼルは条件反射で手を引っ込めた。
「そもそもランツェ! 私の紅茶もとっくに空よ!」
「も、申し訳ありません、アビーお嬢様! つい、手が勝手に!」
「勝手に!?ランツェの手も! ヴェゼルの手も!!」
怒号が重なり、応接間が小刻みに震えた。それでも――全員の顔には笑いがこみ上げていた。
アクティが、誰にも聞こえないようにそっと呟く。「さすにい……」
フリードとオデッセイは顔を見合わせて苦笑する。
オースターは「さすが“スケコマシ”の異名は伊達じゃない」と真顔で感心していた。
バーグマンは腹を抱えて大笑いしたあと、ふと真顔に戻る。
「じゃが、婿殿――正妻はアビーじゃぞ!」
ヴェゼルが「わかってます!」と即答するのを見て、また全員が笑い出した。
その脇で、アクティの膝にちょこんと座るサクラは、今日もお菓子をもぐもぐ食べながら言った。
「……将来、ヴェゼルの妻は何人になるんだろ」応接間は、再び笑いに包まれた。




