第256話 さすにい!
雪がそろそろちらつく中、領館の前庭で馬の嘶きと共に、土煙が舞い上がる。
早馬だった。伝令を受け取った従者が、慌てて玄関へ駆け込む。
「フリード様! ヴェウスター領より早馬にて先触れです!」
フリードは顔を上げる。まだ防壁工事の打ち合わせで疲れが残っていたが、その名前を聞いて眉をひそめた。
「またバーグマン殿か?」
アビーの表情が一瞬で曇る。「えっ、また来たの? この間帰ったばっかりよね?」
彼女はスープをすくう手を止めた。「まさか、やっぱり“家に戻れ”って言いにきたとのかしら……」
オデッセイが紅茶を置いて微笑む。「アビーちゃん、考えすぎよ。きっと連絡事項でしょう」
だが、アビーは明らかに浮かない顔だった。
――そして、一時間後。
門の向こうから、重厚な馬車が現れた。護衛の騎士が数名付き従っている。バーグマン卿が扉を開け、いつもの柔和な笑みを浮かべて降り立つ。
その背後から、小柄な影がひょこりと姿を現した。
「……?」
アビーは目を瞬かせた。その影は、彼女より一回り小柄な少女。耳がぴんと立ち、尻尾がふわふわと揺れている。
猫族――しかも見覚えがあった。
バーグマンがフリード夫妻に挨拶を交わしている最中、その少女は一直線にアビーのもとへ駆け寄った。
「アビーお嬢様っ!!!」抱きついた勢いでアビーがよろける。
「ら、ランツェ!? どうしてここに……!」ランツェは涙目で、しかし真剣な表情で言い放つ。
「なぜ私を置いていくのですか!!!」その場の空気が止まった。
「…猫……あれ?…ニコ?」ヴェゼルが口をあけたまま固まる。
バーグマンが苦笑いを浮かべながら事情を説明する。
「いやぁ、領館に戻ったらのう『なぜアビーがいないのか!?』と泣き出されてのう……。アビーを追ってビック領へ、一人で歩いていくと言って聞かなくて、仕方なく連れてきたんじゃ。それと伝えなければならぬ情報もあってのう」
ランツェは胸を張って言った。
「私はお嬢様に拾っていただいた身。路頭に迷う私を救ってくださった恩人です。お嬢様の行くところには、神に召されるまで同行すると決めたのです!」
「神に召されるまでって……」アビーは額に手を当てる。
だがヴェゼルは別のところに意識が飛んでいた。
――小柄で、小顔、柔らかそうな耳。白色の毛並み。ハチワレの模様、潤んだ瞳。
(……ニコちゃんだ)
前世で飼っていた猫を思い出す。家族の皆には懐いていたが、唯一自分には一切懐かなかった。しかし、撫でてほしい時だけ、誰でもない自分に必ず寄ってきた気まぐれな猫。
無意識に、ヴェゼルの手が伸びた。
「え?」ランツェが瞬く間に固まる。
次の瞬間、ヴェゼルは彼女の頭をわしゃわしゃと撫でていた。
「んにゃ……」思わず喉を鳴らすランツェ。ゴロゴロと音が漏れ、目を細める。
「気持ちいいのか? よしよし……」ヴェゼルの手つきは完全に猫を撫でるプロのそれだった。一心不乱に首の下をくすぐるように撫で、頬の毛並みを整えるように撫で、首の後ろから背骨を滑るように撫でて、最後に尻尾の付け根を――。
「んにゃっ!!!」
ランツェの体がビクンと腰が跳ね、尻尾がぴんと立つ。つま先立ちで、耳まで赤く染まった。
(ああ、やっぱり猫ってこの辺りをトントンすると……)と満足げなヴェゼル。
――次の瞬間、耳がキリキリと引っ張られた。
「いったっ!!」
横を見ると、アビーが毛を逆立てて、まさに猫のように顔を真っ赤にしていた。
「ヴェゼル!! 猫族の女の子のお尻を撫でるのはダメなのよ!!!」
「な、なんで!?」
「それは! 求愛のサインなのっ!!!」
「はああ!?」
ランツェは完全にトロンとした顔で、ふにゃりとその場に座り込んだ。頬が紅潮し、瞳はうるんでいる。
バーグマンがそれを見て腹を抱えて笑った。
「はっはっはっ! さすがは“スケコマシ”と呼ばれる婿殿だのう! 手が早い!」
「呼ばれてません!!!」とヴェゼルが即座に否定する。
一方、フリードとオデッセイは同時に溜め息をついた。
「……ほんと、もう少し慎みを覚えなさい」
「だって、可愛くて……」ヴェゼルがつい口を滑らせた。
「可愛いですって!?」アビーの声が一 、一オクターブ上がる。
「え、いや、その、猫として……」
「猫として!?」
アビーの髪がバチバチと静電気を帯びたように逆立つ。彼女の後ろで、ランツェがまだとろんとした目で呟いた。
「私の……ご主人様……」
「誰がよっ!!」アビーが怒鳴る。
「お嬢様のご主人様です……」
「違うでしょ!! あなたのご主人様は私でしょ!!!」
ランツェはきょとんとした顔でアビーを見たが、すぐにまたヴェゼルへと視線を戻し、甘ったるい声で呼んだ。
「……ご主人様♡」
「違う!!!」アビーの怒声が響く。
バーグマンは笑いすぎて膝を叩き、グロムは静かに顔を覆っていた。オデッセイはもう諦めたようにため息をつく。
そんな修羅場の空気の中、食堂の戸口からアクティがひょっこり顔を出した。
「ねえねえ、なにがあったの?」
オデッセイが「見なくていいわ」と言うより早く、アクティの目に映ったのは――
耳を引っ張られ涙目のヴェゼルと、頬を赤らめた猫族の少女。
アクティは両手を掲げて叫んだ。「さすがおにーさま!! “さすにい”だー!!!」
「やめてくれえぇぇぇ!!!」
朝の領館に、笑いと怒号と、まだ鳴り止まぬバーグマンの爆笑が響き渡った。
その後、オデッセイの提案で「オデッセイかアビーがいない時は猫族への接触禁止」という新たな家訓が定められたという――。




