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第252話 エスパーダの帰還

 約二ヶ月後、エスパーダはトランザルプ神聖教国の領都トルネオへと帰還した。


まだ夜の明けきらぬ早朝、馬車の車輪が石畳をかすかに鳴らす。護衛として同行するのは、帝国宰相エクステが手配した手勢である。


 そのもう一台の後方の馬車には、かつての教国第一騎士団長ゼトロスがいた。四肢を失い、介添人の助けを借りてかろうじて息をしている。


目は焦点を失い、もはや言葉すら紡げぬ。かつて誇り高かった男の影は、ただ生の名残をとどめるだけであった。


 道中、キャリバーは傷の深さと失血に耐えられず息を引き取った。エスパーダは何度も聖魔法を施したが、届かなかった。指先は冷え、心だけが燃えるように痛む。


 ──これが、教国の“正義”の果てなのか。彼は唇をかみしめ、沈黙のまま神殿への道を進んだ。


 トルネオ神殿の門が開くと、聖職者たちがざわめいた。埃にまみれ、片腕を失い、伴うのは一人では歩行も困難な四肢のない肉塊。誰もが信じられぬものを見るような目で二人を見た。


 はじめ、司祭たちは浮浪者でも見つけたかのようにぞんざいに扱った。しかし、その中の一人が震える声で叫ぶ。


 「ま、まさか……エスパーダ様!? その腕は、いったい……! そして、その方は……ゼトロス団長ではありませんか!」


 場の空気が一変した。驚愕と混乱が入り混じる。エスパーダは静かに告げる。


 「総主教スピアーノ猊下に、大至急、重大な報告があります」


 しかし司祭は眉をしかめ、低い声で言った。


 「……そのような身なりではお通しできません。まずは身を清めてください」


 エスパーダは苛立ちを感じたが、総主教に会うためだと自分を納得させ黙ってうなずき、風呂と衣替えを済ませた。それでも呼び出しは遅れに遅れ、日が傾く頃ようやく面会が許された。


 面会の間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。部屋は贅を極め、金銀の装飾が壁を覆い、絹のカーテンが風もないのに揺れている。


 椅子に腰かけたスピアーノは、肥え太った体に金細工の法衣をまとい、背後には聖職者とは思えぬ妖艶な女が二人、侍女のように控えていた。その姿を見た瞬間、エスパーダの胸の奥に、これまで感じたことのない怒りがこみ上げる。


 スピアーノは重たい声で言った。


 「……その腕はどうしたのだ。後ろにいるのはゼトロスか。なぜお前がゼトロスといるのだ? ということは、帝国での妖精確保は失敗したのだな?」


 エスパーダは感情を押し殺し、淡々と報告を始めた。


 帝都で偶然出会ったヴェゼル、そしてビック領へ向かう途中のクルセイダーの襲撃。

 ヴェゼルの婚約者が殺され、逆上した彼が三百の聖騎士を十秒と経たずに殲滅したこと。

 自らも腕を失いながら、命だけは「伝言係」として生かされたこと。


 そして、ヴェゼルの言葉──


 「今後、目の前に現れる教国の聖職者はこの世に塵一つ残さずに殲滅する」


 その響きがいまだ耳から離れぬ。報告を終え、彼は深く息を吐き、初めて声を荒げた。


 「あなたは、なんという愚かなことをしたのです! 彼は話し合えば分かってくれたはずです!理性的な人間でした! 彼は決して敵にしてはならなかった。あれは、人ではなく、災厄そのものです!」


 スピアーノの額に一瞬、苛立ちが走る。


 「災厄だと? たかが騎士爵の、それもハズレ魔法使いという異名がある子に何ができるのだ。それにこの教国には精霊様がついておるのだぞ。恐れるに足らん」


 エスパーダはその言葉を聞き、深くうなだれた。


 「……そうですか。では、もう何を言っても無駄ですね。ただ、最後に一言だけ言わせてください。彼を敵に回したら、誰であろうとも、国でも、精霊でも、神でさえも殲滅されるでしょう。このことだけは覚えておいてください」


 静かな声で続けた。


 「私は本日をもって、教国の聖職位を返上します。そして、あなたの息子であることも今日限りで捨てます」


 椅子の脚が軋む音が響く。スピアーノが立ち上がり、怒鳴った。


 「待て、エスパーダ! 教国は滅ばん! あの小さな領などに! それにたかが妖精だろうが! 精霊の出来損ないなぞ、教国の精霊様の御力で蹂躙してくれるわ!」


しかし、エスパーダは一瞥もせずにこの部屋を出て行った。




 その背後で、目つきの鋭い男が一歩前に出た。


 「スピアーノ様、あの者、たとえ猊下のご子息とはいえ、教国に背いたと見なさざるを得ません。処分いたしますか?」


 スピアーノは薄ら笑いを浮かべ、酒気を帯びた声で言った。


 「放っておけ。たかが聖魔法を使えるだけの若造だ。あの心根の甘さでは、すぐに死ぬ。あの者の代えはいくらでもいる。誰か適当な息子を見繕っておけ。できるだけ従順な者をな」




 エスパーダはその場を無言で去った。廊下に出ると、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。


 ──あの人は、もう父ではない。その夜、トルネオの空は鈍く曇り、鐘の音だけが遠く響いていた。




神殿を出たエスパーダは、振り返って一度だけ深く頭を垂れた。それは敬意の礼ではない。――決別の一礼だった。


この地に、二度と足を踏み入れることはない。そう心の底で静かに誓う。白大理石の参道を歩きながら、冷たい風が頬を打った。行くあてもなく、それでも足は止まらない。


――これからどうする。この教国では、もはや生きてはいけない。


父、スピアーノがいつ暗殺者を差し向けるかもわからない。脳裏に浮かぶのは、あの醜悪な姿。金と宝石で身を包み、太鼓腹を揺らしながら笑う“総主教”の影。


なぜ自分は、あんな男を敬っていたのだろう。父としても、主としても。――愚かだった。確かにこの教国には三体の聖霊がいる。聖を筆頭に、他の二柱。


その存在は秘匿され限られた聖職者のみに崇高に語られ、朝に祈りを捧げる。


だが――何一つ教国民は救われてはいない。飢える孤児は路地に溢れ、病に倒れた民の声は届かぬまま。精霊に捧げる供物のために、どれだけの金が流れ、どれほどの血が流れたのか。


エスパーダは苦く笑った。「……見ようとしなかったのは、私の方か」


総主教の息子という立場だけで、贅沢を享受してきた。何十人といる“総主教の子”のひとりに過ぎない。自分が後継候補とされたのも、周囲より少し賢く、従順で聖魔法が少し得意だったからだ。


あの腐りきった神殿に、自分の代わりなどはいくらでもいるだろう。


――ならば、どうせ死ぬなら。もう一度だけ、ヴェゼルに会いたい。


彼の魔法で左腕を失った身であっても、直接関与してはいないが教国の聖職者として彼に許しを乞いたい。


あれほど愛する者を目の前で殺された彼を、責める資格など自分にはない。


あの怒り、あの絶望。同じ立場なら、きっと自分も狂っていただろう。


「ヴェゼルか……」名を呼ぶと、風が頬をなぞった。涙か風かも分からぬものが目尻を濡らした。


夜の帳が下りる。


星ひとつない暗闇の中、エスパーダは外套の裾を握りしめた。その足は迷うことなく――ビック領を目指す。


道なき荒野を越え、凍てつく風を浴びながら、ただ一つの思いを胸に――贖罪のための旅が、今、始まったのだ。

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