第250話 グロムの御目出度
朝食を終えると、バーグマンは静かに席を立ち、玄関を抜けて外へ出た。
秋の風がまだ冷たく、敷石の小道に薄く霜が残っている。屋敷の端に立つヴァリーの墓前で足を止め、白い小花を見下ろした。
「……ヴァリー殿、娘を任せますよ。あの子はまだ半人前でしてな」
その声には、どこか照れと寂しさが滲んでいた。
帽子を胸に戻し、彼は小さく息を吐く。朝露の光が墓標を包み、風が庭を渡っていった。
バーグマンは屋敷に戻り、フリード夫妻とヴェゼルに順に別れを告げた。
「ヴェゼル殿、娘を頼みますぞ。泣き虫で頑固ですが、根はいい子です」
「任せてください」
朝の光が彼の背を照らす。ゆっくりと馬車が動き出し、見送る者たちの影が伸びていく。アビーは何も言わず、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
朝の霧がまだ残る庭で、三人の少女?が佇んでいた。アビーが摘んだ白い花を抱え、アクティが手際よく茎を整え、それを静かに受け取って束ねる。サクラはその後ろにいるヴェゼルの肩に乗っていた。
ヴァリーの墓に花を供えるのが日課になった。
アビーが花をそっと墓前に置き、祈るように手を合わせる。
花束が風に揺れ、霧が少しずつ晴れていく。
いつもの朝。だがその穏やかさの奥に、帝都の影が迫っていることを、誰もが感じていた。
応接間に入ると、すでにフリードとオデッセイ、カムリ、グロム、そして見慣れぬ姿──コンテッサがいた。彼女はベントレー公爵家から出向している元諜報部の女性で、凛とした立ち居振る舞いが印象的だった。
フリードがいつになく真面目な声で言う。
「ヴェゼル。帝都から呼び出しがあるかもしれん。いや、きっと呼び出されるだろう」
オデッセイが静かに続ける。「今回のクルセイダー襲撃の件ね。けれど、あなたはまだ子供。精神的にも肉体的にも参っているので帝都での聴取には耐えられない、ということにしておきましょう」
ヴェゼルは眉を寄せた。「でも、それだと誰が行くんですか?」
「私とフリードが行くことになると思うわ。他に適任者はいないでしょう」オデッセイが答える。
「片道約一ヶ月弱の往復と、聴取の期間を考えると、二、三ヶ月は戻れないかもしれない。その頃にはすっかりと冬になっているでしょうね」
フリードが苦笑いを浮かべて、「領のことは任せる。お前も、徐々に“当主”として動くときだ。まぁ、まだ若すぎではあるが、お前の才覚だと、問題ないだろう」
ヴェゼルはうなずいた。胸の奥で、不思議と静かな決意が灯る。
オデッセイが続ける。「内政はカムリ、治安はグロム。二人と協力してね」
「はい。……頑張ります」短い返事だったが、その声には迷いがなかった。
その瞬間、オデッセイがちらりとグロムを見た。
いつもなら石像のように無表情なグロムが、なぜか落ち着かない様子で椅子の脚をいじっている。その隣でコンテッサがわざとらしく咳払いをした。
それが合図のように、グロムが口を開く。
「じ、実は……コンテッサと所帯を持つことになった」
「は?」ヴェゼルが素っ頓狂な声を上げる。
「え?」フリードも目を丸くした。
オデッセイとカムリは、どこか含み笑いを浮かべている。グロムが耳まで真っ赤にしながら話を続ける。
「クルセイダーの襲撃を聞いてな、色々考えた。人生、何が起きるかわからん。なら……後悔しないうちに決めようと思って。すぐにコンテッサに言ったんだ」
「うむ、立派な理由だ」フリードが頷きながらも、「でもな、俺に一言くらいあってもよかったんじゃないか?」と眉を上げる。
グロムは縮こまりながら、「……すまん」と答える。
コンテッサが横からさらりと言った。「報告が遅れて申し訳ありません。ですが、私は元々この地で骨を埋める覚悟でしたから」
その潔い言葉に、ヴェゼルは心から感心して微笑んだ。「おめでとうございます。二人とも」
場が和む。だが、オデッセイがそこで一転してフリードを睨んだ。
「あなたは、もう少し大黒柱らしくしてちょうだい」
「え、俺?」
「そうよ。山のようにどっしり構えて、“大義!”って言ってればいいのよ」
「……いや、そんな雑な」
オデッセイが腰に手を当てて睨む。
「他国の密偵の女に鼻の下伸ばしてる余裕があるなら、そのくらい簡単でしょう?」
「ちょ、ちょっと待て!あれは罠だと思って泳がせてただけだ!」
「泳がせてた割に、顔がだらしなかったわね」
「ぐ……」
カムリが笑いを堪えきれずに咳き込み、ヴェゼルも思わず吹き出した。
ようやく戻ってきてから、なぜかオデッセイがフリードに対する当たりが強いなと思っていた理由が分かった。どうやら、フリードに色仕掛けをした密偵がいたようだ。
そんな騒がしさの中で、会議は終わった。皆が席を立ちかけたとき、ヴェゼルがフリードの袖をそっと引く。
「父さん、こういうときこそ“夜中の身体強化”でしょ?」
一瞬で、フリードの顔に光が差したようだった。
「ふむ……確かに鍛錬も大事だな」
そう言って奥の部屋へ消える背中を、オデッセイが訝しげに見送った。
その夜、夕食後の食卓でフリードはやたらと落ち着かない。
オデッセイがお酒を注ぎながら、「あなた、そわそわしてるわよ」と呟く。
「な、何でもない。ただ、少し体を鍛えようかと」
「……ふうん?」
食事が終わると、そのまま、無理やり理由をつけてオデッセイを連れて寝室へと消えていった。
残されたヴェゼルたちは顔を見合わせ、サクラが「なんか変ね」と小声で言う。
翌朝。
オデッセイの歩き方は明らかにぎこちなかった。フリードも顔色が冴えず、足がふらつきながら席に着く。
アビーが心配そうに言った。「フリードおじさん、オデッセイさん、体調が悪いんですか?」
その瞬間、アクティが悪戯っぽく口を挟む。「きのう、“おたのしみ”がすぎたんでしょ?」
「おたの……?あっ……!」アビーが真っ赤になり、両手で顔を覆う。
フリードもオデッセイも同時にうつむき、耳まで染まった。食卓は爆発的な笑いに包まれる。
その日の剣の鍛錬は、フリードの筋肉痛で中止になった。
ヴェゼルは笑いながら思う。──ああ、前にもこんな朝があったな。
笑い合いながら、また日常へ戻っていく。その穏やかな空気の中で、ビック領の朝日はまっすぐに昇っていた。
新しい一日が始まる。
そしてヴェゼルは、次の嵐を知らぬまま、静かに笑った。




