第249話 ヴェクスター男爵との夕食
その夜、領館の大食堂には暖かな灯がともっていた。長い一日の終わりを祝うように、香ばしい肉と焼き立てのふわふわパンの匂いが漂う。
この夜の席には、ヴェゼル、フリード、オデッセイ、アクティ、そして客人のバーグマン、アビー、オースター、さらにグロムが並んでいた。
バーグマンは今夜だけ泊まり、明日には自領へ帰る予定だという。
アビーとオースターはしばらくこの地に残る――そんな話をしながら、穏やかな食前の笑いが広がっていた。だが、その席には、もう一つの“異変”があった。
「……?」バーグマンが、ふと視線を動かした。
末席に、見慣れぬ少女が一人、当然のように椅子に腰かけている。十代半ば、綺麗な色の髪を肩で揺らし、妙に堂々とした態度。
アクティもオースターもその顔を知らないらしい。ただ、アビーだけはどこかで見た顔だと自分の記憶を探っていた。
そして、空気が一瞬だけ止まり、バーグマンが穏やかに問いかけた。
「そちらの少女は……どなたかな?」
次の瞬間、少女は勢いよく立ち上がり、胸を張った。
「私はヴェゼルの婚約者!」あまりに即答だった。
空気が弾け、全員の時間が一瞬止まる。そして、アビーの髪が、威嚇するような猫のように途端に逆立った。今にもテーブルを飛び越えてヴェゼルに掴みかかりそうな勢いである。
「お、落ち着いて、アビー!」ヴェゼルが慌てて手を伸ばすが、アビーの目は燃えていた。
ヴェゼルは思わず椅子をずらし、声を裏返らせた。
「サ、サクラ!? 冗談はやめて! ……まぁ、婚約者ってのは、冗談じゃないけど……」
「サクラ?」三人分の声が重なった。
バーグマン、アビー、アクティが同時に反応し、食堂の空気がわずかにざわめく。サクラは堂々と両手を腰に当て、威風堂々とした声で言い放つ。
「私は、夜だけは“闇の精霊サクラ”! ヴェゼルの婚約者よ! 私が分からないなんて、アビーも、まだまだ甘いわね!」
「サクラぁ……!」仕方なく、ヴェゼルは咳払いして説明を始めた。
「……あの教国の襲撃のあとでね。サクラが泣いていたんだ。だから俺が――“サクラは悪くない。悪いのは神だ”って言ったんだよ。そしたら、サクラが……夜だけ、精霊に戻ることになったらしいんだ」
その言葉に、全員の視線が一斉にサクラへ向く。光でもなく、闇でもなく――その存在が確かに揺らめくように、月光の下で微かに輝いて見えた。
「夜だけ……闇の精霊に戻る、だと?」オースターが静かに呟いた。
他の者が驚きと困惑の声を上げる中で、彼だけは沈黙し、目を細めて考え込む。まるで、古い記憶を掘り起こすように。
そんな空気を無視して、サクラがさらりと言い放つ。
「だからね、夜は私がヴェゼルを抱いて寝てあげてるの!」
「……!」一瞬で凍りつく空気。
アビーがテーブルを握りしめ、ヴェゼルを睨んだ。
「それ、本当?」
「い、いや、その……説明すると長いけど、そういう意味じゃ――!」
必死に弁解を試みるヴェゼルだったが、サクラはにこにこと頷きながら追撃した。
「温かいし安心するって言ってたもの!」
「言ってないっ!」食堂が爆発したように笑いに包まれる。
バーグマンは椅子を叩いて大笑いし、腹を抱えるほどだった。
「ははは! 相変わらずだのう、婿殿! 新しい婚約者が増えたかと思って肝を冷やしたぞ! なぁ、アビー?」
「わ、私は……ヴェゼルのこと、信じてたもん!」
「あの『め』はかんぜんに、うたがってた」
横からアクティが冷静に突っ込み、アビーの顔が真っ赤に染まった。
バーグマンの笑い声がさらに大きくなり、オデッセイまで口元を押さえて笑いを堪えている。
その間も、オースターは一言も発さず、静かに杯を見つめていた。
――“闇の精霊”が“妖精”に堕ちたのは、神の怒りによる契約か呪いだったはずだ。それが一時的とはいえ、解かれるなどあり本来は得ないのでは?(……ヴェゼル殿はいったい…………)
彼の脳裏に浮かぶのは、古文書に記された“契約を破る者”の伝承。人ならざる何かを赦される、あるいは繋がる存在。それが、この少年に宿っているのか――オースターは微かに身震いした。
その頃、サクラはパンをつまみ、アクティに話しかけていた。
「ねぇアクティ、今日のシチュー、美味しいね!」
「うん! サクラちゃんって、ひるは、ちいさいけど、よるはおおきいの?」
「そうよ、この体はヴェゼルのための夜専用なの!」
「よるせんよう?」とアビーがまた叫び、また笑いが起こる。
ヴェゼルは頭を抱えて否定しながらも、心のどこかで安堵していた。
戦いの重苦しさも、ヴァリーを失った悲しみも――こうして人々が笑う音で、少しずつ薄れていく気がした。
フリードがゆっくりとお酒を口にし、ふと呟く。
「……俺は、まだ喋ってはダメなのかな?」
オデッセイが即座に振り向いた。「ダメです」
「……はい」小さく項垂れるフリード。
その姿にサクラがくすりと笑い、アビーも肩を震わせた。やがて、笑い声が暖炉の火に溶け、和やかな空気が食堂全体を包む。
ヴェゼルは杯を手に取り、静かに皆を見回した。
――悲しみの夜は、もう過ぎたのだろうか。
新しい日々が、確かに始まっている。アビーが隣で、ヴェゼルの袖を引いた。
「ねぇヴェゼル、後で夜風にあたりに行こう?」
彼は頷き、静かに立ち上がる。外の月が、窓の外で白く輝いていた。笑い声の残る食堂を背に、二人の影が廊下へと伸びていく。
その背を見送りながら、バーグマンはお酒を掲げた。
「……あの婿殿、やっぱりただ者じゃないな」
オースターは無言で頷き、杯の中の光を見つめた。闇と月、その境界に立つ者――それが、今のヴェゼルなのかもしれない。
やがて、食堂に再び笑い声が戻る。
フリードが肉を口いっぱいに頬張り、アクティがそれを真似する。心の強張りはみんなの笑い声がその頬を徐々にほぐしていく。
穏やかで、奇妙に賑やかな夜だった。ビック領に、新たな日常が静かに根を下ろし始めていた。




