表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

266/370

第249話 ヴェクスター男爵との夕食

その夜、領館の大食堂には暖かな灯がともっていた。長い一日の終わりを祝うように、香ばしい肉と焼き立てのふわふわパンの匂いが漂う。


この夜の席には、ヴェゼル、フリード、オデッセイ、アクティ、そして客人のバーグマン、アビー、オースター、さらにグロムが並んでいた。


バーグマンは今夜だけ泊まり、明日には自領へ帰る予定だという。


アビーとオースターはしばらくこの地に残る――そんな話をしながら、穏やかな食前の笑いが広がっていた。だが、その席には、もう一つの“異変”があった。


「……?」バーグマンが、ふと視線を動かした。


末席に、見慣れぬ少女が一人、当然のように椅子に腰かけている。十代半ば、綺麗な色の髪を肩で揺らし、妙に堂々とした態度。


アクティもオースターもその顔を知らないらしい。ただ、アビーだけはどこかで見た顔だと自分の記憶を探っていた。


そして、空気が一瞬だけ止まり、バーグマンが穏やかに問いかけた。


「そちらの少女は……どなたかな?」


次の瞬間、少女は勢いよく立ち上がり、胸を張った。


「私はヴェゼルの婚約者!」あまりに即答だった。


空気が弾け、全員の時間が一瞬止まる。そして、アビーの髪が、威嚇するような猫のように途端に逆立った。今にもテーブルを飛び越えてヴェゼルに掴みかかりそうな勢いである。


「お、落ち着いて、アビー!」ヴェゼルが慌てて手を伸ばすが、アビーの目は燃えていた。


ヴェゼルは思わず椅子をずらし、声を裏返らせた。


「サ、サクラ!? 冗談はやめて! ……まぁ、婚約者ってのは、冗談じゃないけど……」


「サクラ?」三人分の声が重なった。


バーグマン、アビー、アクティが同時に反応し、食堂の空気がわずかにざわめく。サクラは堂々と両手を腰に当て、威風堂々とした声で言い放つ。


「私は、夜だけは“闇の精霊サクラ”! ヴェゼルの婚約者よ! 私が分からないなんて、アビーも、まだまだ甘いわね!」


「サクラぁ……!」仕方なく、ヴェゼルは咳払いして説明を始めた。


「……あの教国の襲撃のあとでね。サクラが泣いていたんだ。だから俺が――“サクラは悪くない。悪いのは神だ”って言ったんだよ。そしたら、サクラが……夜だけ、精霊に戻ることになったらしいんだ」


その言葉に、全員の視線が一斉にサクラへ向く。光でもなく、闇でもなく――その存在が確かに揺らめくように、月光の下で微かに輝いて見えた。


「夜だけ……闇の精霊に戻る、だと?」オースターが静かに呟いた。


他の者が驚きと困惑の声を上げる中で、彼だけは沈黙し、目を細めて考え込む。まるで、古い記憶を掘り起こすように。


そんな空気を無視して、サクラがさらりと言い放つ。


「だからね、夜は私がヴェゼルを抱いて寝てあげてるの!」


「……!」一瞬で凍りつく空気。


アビーがテーブルを握りしめ、ヴェゼルを睨んだ。


「それ、本当?」


「い、いや、その……説明すると長いけど、そういう意味じゃ――!」


必死に弁解を試みるヴェゼルだったが、サクラはにこにこと頷きながら追撃した。


「温かいし安心するって言ってたもの!」


「言ってないっ!」食堂が爆発したように笑いに包まれる。


バーグマンは椅子を叩いて大笑いし、腹を抱えるほどだった。


「ははは! 相変わらずだのう、婿殿! 新しい婚約者が増えたかと思って肝を冷やしたぞ! なぁ、アビー?」


「わ、私は……ヴェゼルのこと、信じてたもん!」


「あの『め』はかんぜんに、うたがってた」


横からアクティが冷静に突っ込み、アビーの顔が真っ赤に染まった。


バーグマンの笑い声がさらに大きくなり、オデッセイまで口元を押さえて笑いを堪えている。


その間も、オースターは一言も発さず、静かに杯を見つめていた。


――“闇の精霊”が“妖精”に堕ちたのは、神の怒りによる契約か呪いだったはずだ。それが一時的とはいえ、解かれるなどあり本来は得ないのでは?(……ヴェゼル殿はいったい…………)


彼の脳裏に浮かぶのは、古文書に記された“契約を破る者”の伝承。人ならざる何かを赦される、あるいは繋がる存在。それが、この少年に宿っているのか――オースターは微かに身震いした。


その頃、サクラはパンをつまみ、アクティに話しかけていた。


「ねぇアクティ、今日のシチュー、美味しいね!」


「うん! サクラちゃんって、ひるは、ちいさいけど、よるはおおきいの?」


「そうよ、この体はヴェゼルのための夜専用なの!」


「よるせんよう?」とアビーがまた叫び、また笑いが起こる。


ヴェゼルは頭を抱えて否定しながらも、心のどこかで安堵していた。


戦いの重苦しさも、ヴァリーを失った悲しみも――こうして人々が笑う音で、少しずつ薄れていく気がした。


フリードがゆっくりとお酒を口にし、ふと呟く。


「……俺は、まだ喋ってはダメなのかな?」


オデッセイが即座に振り向いた。「ダメです」


「……はい」小さく項垂れるフリード。


その姿にサクラがくすりと笑い、アビーも肩を震わせた。やがて、笑い声が暖炉の火に溶け、和やかな空気が食堂全体を包む。


ヴェゼルは杯を手に取り、静かに皆を見回した。


――悲しみの夜は、もう過ぎたのだろうか。


新しい日々が、確かに始まっている。アビーが隣で、ヴェゼルの袖を引いた。


「ねぇヴェゼル、後で夜風にあたりに行こう?」


彼は頷き、静かに立ち上がる。外の月が、窓の外で白く輝いていた。笑い声の残る食堂を背に、二人の影が廊下へと伸びていく。


その背を見送りながら、バーグマンはお酒を掲げた。


「……あの婿殿、やっぱりただ者じゃないな」


オースターは無言で頷き、杯の中の光を見つめた。闇と月、その境界に立つ者――それが、今のヴェゼルなのかもしれない。


やがて、食堂に再び笑い声が戻る。


フリードが肉を口いっぱいに頬張り、アクティがそれを真似する。心の強張りはみんなの笑い声がその頬を徐々にほぐしていく。


穏やかで、奇妙に賑やかな夜だった。ビック領に、新たな日常が静かに根を下ろし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ