第246話 ビック領これからの方向性
翌日の午後、領館の厚い扉が閉まり、暖炉の火が静かに揺れる執務室に、慎ましいが重い空気が満ちた。
フリードの大きな机の周りには、オデッセイ、ヴェゼル、サクラ、執事カムリ、フリードの弟グロムが座っていた。招集はヴェゼル自ら。訥々と、しかし確実に事の顛末を伝えるための席である。
まずヴェゼルが口を開いた。声は低く、言葉を選ぶように進んだ。
「教国のクルセイダーが、――“妖精を保護する”と言って我々を包囲しました。彼らは馬車と荷物を調べると言い、すぐに力づくで排除すると脅してきました。話し合いを求めましたが、あのとき、――あの兄妹に手を上げようとしたんです。そこへヴァリーさんが止めに入った。その瞬間、数名に取り囲まれ、彼女は――」
言葉の途中でヴェゼルは詰まり、声が震んだ。肩にいたサクラがそっと彼の頬に寄り添い、静かに頷く。ヴェゼルは続けた。
「そのとき、俺は取り押さえられ――我を忘れました。見える範囲のクルセイダー、二百数十の心臓を――収納して、一瞬で殲滅しました。そして首魁の団長の四肢を断ち、エスパーダさんの従者の両腕を落とし、エスパーダさんの左腕も。そして俺は彼らの心臓を、山のように彼の傍らに置き、教国の聖職者は残らず殲滅すると宣言して、勝手に宣戦布告しました。ビック領の嫡男として反省しています。申し訳ありませんでした」
部屋に沈黙が落ちる。オデッセイは唇を噛み、グロムは無表情のまま。カムリは目を伏せ、サクラは小さく震えていた。フリードは黙っていたが、やがてヴェゼルに近寄って両手を大きく振って立ち上がった。
「よく言った、息子よ!」とフリードは叫んだ。
剣の稽古で鍛えられた太い腕が、つい強く空を掴む仕草になった。
「それでこそ俺の息子だ!ヴァリーの無念、そして、ヴェゼルの恨み、教国とこのビック領だけでの戦争か!戦ってやろうじゃないか!ここで終わらせてやる!我らの領と家族とプライドのために戦うのだ!」
言葉は熱く、まるで戦場の檄のように響いた。ヴェゼルは顔を上げられず、必死に歯を食いしばる。
しかしオデッセイの顔が次の瞬間、石のように硬くなった。彼女はフリードを遮るように片手を挙げ、低く、冷静に言った。
「フリード、黙りなさい。感情だけでは国やそしてこの領は守れないわ。まずは事実の確認です。心臓の山はその後どうしたの?」
ヴェゼルは目を伏せ、「ルークスおじさんが――油をかけて燃やしてくれてました。火がすべてを焼き払ってしまったでしょうから、後で来た者には見られてないかもしれないです」と答えた。
オデッセイの肩がわずかに緩む。あの山を見られることが一番恐ろしかったのだ。目撃されればヴェゼルの「収納魔法」の規格外さは覆い隠せない。
オデッセイは続ける。「皇妃様に手紙を出したのは正しかったわ。ルークスがいてくれて良かったわね。でも、それだけで何もかも終わるわけではないわ。ヴェゼル、あなたは今後どうしたいの?」
ヴェゼルの返答は静かだが断固たるものだった。
「俺は――もう、神にも帝国にも教国にも、誰にも屈しない。ヴァリーさんに誓った。自分の大切なものを奪わせない。誇示したり、喧嘩を売ったりするつもりはない。ただ、誰かを失いたくない。だから、来る者は全部叩き潰す。それだけです」
父の目が再び輝く。歓喜混じりにまた「さすが俺の息子だ!」と叫び出したが、オデッセイが鋭く遮った。
「黙りなさい!あなたは私が喋って良いと言うまで口を利いてはいけません」と一喝する。フリードはしゅんとし、コクコクと頷き手で口をおさえてうつむいた。
オデッセイはヴェゼルに向き直り、言葉を落ち着けて紡ぐ。声は優しいが確固としていた。
「あなたの怒りも、誓いもわかるわ。でも考えてみて。あなたが強ければ強いほど、あなたを恨む者は増えるの。そして私たち、アクティやサクラ、そして領民たち――あなたの周辺にいる“戦えない人”や“弱いもの”たちが狙われる可能性が高まるのよ。スタンザ元伯爵の時も最初に狙われたのはアクティだった。あなたが一人で相手を薙ぎ倒すことはできても、相手は必ず別の手立てを打ってくる。もしあなたが信念を貫きたいなら、私たちと縁を切りなさい。でも、それでも相手は私たちを狙うでしょうね。あなたはその責任を負えるの?」
言葉は鋭く、だが母の手のぬくもりのように重い。ヴェゼルの胸の奥が締め付けられる。自分の強さが、弱い者たちを危険に晒すという現実。彼は目を見開いて叫んだように訊ねる。
「じゃあ、どうすればいいんだ! どうすれば――!」
オデッセイは一歩近づき、そっと彼の肩に手を置く。顔は柔らかく、しかし決意を秘めていた。
「だからこそ、皆で考えるのよ。あなた一人の戦ではなく、守るための策を練る。外交、同盟、隠匿、罠の設え、そして、もし戦うなら最小の犠牲で済む方法を。あなたが前に出るべき時と、出ないほうが良い時がある。私たちはそれを共に考えるの」
言葉は穏やかだが責任の重さを含んでいる。グロムが初めて口を開いた。無愛想な声だが、現実的だ。
「相手は国家だ。感情だけで刃を振るえば、ヴェゼルがたとえどこかで勝っていたとしても、結局はこの領は踏み潰される。だが、放置もできん。手段と時期を選べ。俺たちも共に戦う」
ヴェゼルは嗚咽のように声を上げ、肩で大きく呼吸した。涙が止まらない。だが、その中に少しだけ光が差した。母が差し出す“共有された重さ”の提示が、彼の暴走を抑える土台になったのだ。
執務室の空気は一変した。憤怒と悲嘆に満ちていた冒頭から、協議と責任の空気へと移り変わる。オデッセイは手早く指示を出した。
「まずは外部に疑念を与えないこと。基本的に全面的に争うのはやめるべきだわ。でも、いざという時の備えは大切よ。皇妃様の縁故と商会の協力で事を進める。ヴェゼル、外に向けては冷静に振る舞うこと。フリード、あなたは領の防備を固めて。グロム、資材と人員の調整を。カムリは補給とさまざまな手続き。サクラは――あなたはここで静かにいてくれればいいわ」
サクラは小さくうなずき、ヴェゼルの頬に顔を寄せる。その姿を見たヴェゼルは、ぎゅっと目を閉じてから、ゆっくりと首を振る。涙をぬぐい、言葉を絞り出すように言った。
「わかりました。勝手に突っ走ってはダメだってことですね。――でも、約束してください。何があっても、俺がみんな守りたい」
オデッセイはその言葉を受け止め、小さく頷いた。フリードは再び拳を握り、しかし今回は理性の範囲での勇ましさを示す。
「よし、その誓いを土台にして動こう。だが、約束だぞ。無駄死にだけはするなよ」
会議はその後、細部へと降りていった。情報の隠蔽、皇妃様への正式な面会の段取り、領の防御計画、ルークスとベンティガへの追加連絡、そして最も慎重を要する「ヴェゼルの魔法の扱い」についての議題。オデッセイは冷静に、しかし断固として指示を出していく。グロムがさまざまな資料を作り、カムリが人員配置を練り、フリードは兵を集める手筈を整えた。
夜が深まる頃、集まりは一区切りついた。ヴェゼルは立ち上がり、ふらつきながらも父と母に近づいた。サクラは小さく笑って、彼の手を握る。その手の温もりが、冷たい花のようにヴェゼルの胸を和らげた。
オデッセイが最後に言った。
「忘れないで。怒りは力になる。でも、その力を誰かの盾にするのはあなた自身よ。私たちはあなたの盾にも、剣にもなる。ひとりで背負う必要はないのよ」
その言葉に、ヴェゼルはようやく小さく頷いた。心の中の嵐が少しだけ静まったように思えた。部屋の外では、夜風が木々を撫で、遠くで犬が一声鳴いた。
明日からも始まる日々を、彼らはこれから一つずつ積み上げていくのだと、誰もが感じていた。




