第243話 ヴェゼルの誓い
領館の広間には静寂が満ちていた。長い戦の果てに訪れた、あまりにも静かな別れの場。
ヴァリーの亡骸は白い布に包まれ、花のように眠っていた。祭壇の代わりに木の台を据え、その周りに家領館の者たちが集う。
ヴァリーの葬儀は、ヴェゼルの意志でひっそりとした領館の人だけで弔うことにした。
「領全体を巻き込みたくない。静かに送りたい」と、ヴェゼルは誰よりも静かな声で言った。
参列したのは家族と領館の者だけ。祈りの言葉は、まだ聖職者のいない村では、カムリが代わりに務めた。カムリは深く息をつき、皆の前に立って言葉を紡いだ。
「ヴァリーはこの領に尽くし、ビック家に愛を捧げ、ヴェゼル殿と共に未来を支えようとした方でした。どうか、彼女が天の御許で安らかでありますように——」
その瞬間だった。
焚き火の小さな音だけが響く中で、ヴェゼルが静かに立ち上がる。瞳は揺れず、声はどこまでも平坦だった。
「……ごめんなさい、カムリさん。みんなも」誰も動けないまま、彼の言葉を待った。
「ヴァリーさんは、“神”の名を冠する国の、正統な騎士団に殺されました。だから僕は……神に祈りたくない。神のもとに彼女を送りたくない」
静寂が落ちた。その静けさは、炎の揺らぎすら凍らせるほどだった。
「だからお願いです。祈りは……神へではなく、ヴァリーさんへ。各々の心の中で、彼女に想いを捧げてください」
彼の言葉は、誰の否定も許さないほど、澄んでいた。皆は目を閉じ、ただそれぞれの思いのままに黙祷を捧げた。
誰も声を出さず、ただ涙が頬を伝って落ちていく。
やがて、ヴァリーの身体は荼毘に付された。
焚かれた炎が高く立ち上り、風に舞う火の粉が夜空へ消えていく。ヴェゼルはその炎を見つめたまま、何も言わなかった。
その横顔に照り返す橙の光が、まるで彼の心の奥まで照らしているようだった。燃える音が静かな夜に響き、時折、薪が弾ける。そのたびに火の粉が宙へ舞い上がり、空に吸い込まれていった。
誰も言葉を発しない。オデッセイも、アクティも、ただ両手を胸に当てて立っている。炎は、悲しみを包みながら少しずつ低くなっていった。
数時間が過ぎ、灰が静かに冷えていく。
そのとき、夜空をかすめるように、ひと筋の煙が細く立ち上がった。その白い線が風に揺らぎ、ゆるやかに消えていく。その瞬間、ヴェゼルの頬を風が撫でた。まるで誰かの指先が触れたように、やさしく、あたたかく。
彼ははっと顔を上げる。
「……ヴァリーさん?」
小さくつぶやいた唇に、誰も答えない。けれど、風の音の中に確かに聞こえた。
――ありがとう。
それは儚く、遠く、けれど胸の奥で確かに響いた。ヴェゼルの目にまた光が宿る。涙ではなく、決意のような光だった。
「……うん。こっちこそ、ありがとう」
彼はそう言って、ゆっくりと目を閉じた。炎の名残が風に舞い、夜の帳が静かに降りていく。焼けた灰の上に残る最後の火が、彼の心の奥でゆっくりと消えていった。
ヴェゼルは黙ってその灰を集め、領館の裏手にある花壇の脇に穴を掘った。その手つきは驚くほど丁寧で、まるで生きているヴァリーを寝かせるかのようだった。
「ここなら、いつでも会えるね……」彼はそう呟き、灰を手に取って静かに墓へと入れる。
オデッセイも、アクティも、カムリも、それぞれの手で少しずつ灰を撒いた。花壇には、アクティが供えた小さなピンクの花が風に揺れていた。
こうして、ヴァリーは眠りについた。神に召されることなく、人の手と祈りによって、この地に還ったのだった。
夜は深く、風がほとんど吹かない。
領館の脇にある小さな花壇の脇、ヴァリーの墓の前でヴェゼルは一人立っていた。昼間に皆で埋葬を終えたその場所には、まだ焚き火の灰の匂いが残っている。
月明かりが淡く照らす中、彼は墓の前に膝をついた。
「ヴァリーさん……」
呼びかける声は震えていた。けれど涙はもう出なかった。燃え尽きたあとの空虚さが、ただ静かに胸の中で広がっていた。
「どうして……どうしてあんな終わり方になったんだろう」
ヴェゼルは、墓の上の花に触れた。アクティが供えた小さなピンクの花は、夜露をまとってしっとりと輝いている。
それがあまりにも綺麗で、まるでヴァリーの笑顔の名残のようだった。
「神に仕えて、正義を掲げた国の騎士団が……あんなことをした。もしそれが“神の意思”なら、俺は、そんな神を信じない。もしもそんな神なら、俺が消滅させる」
彼は拳を強く握った。爪が掌に食い込み、血が滲む。けれど痛みは、何も感じなかった。
「ヴァリーさん。俺はもう神になんて祈らないよ。この世界のどの神にも、あなたを奪った存在にも、二度と願わない。でも……あなたには誓う」
風がわずかに吹き、墓の上の花びらがふわりと舞う。それはまるで、彼の言葉を聞いて頷いたように、静かに落ちた。
「俺は生きる。あなたが見たかった未来を俺が見る。あなたが生きた証を俺が証明してみせる。あなたが守ろうとした人たちを俺が守る。たとえ神がこの身を呪っても、俺はもう誰にも屈しない」
彼は立ち上がり、夜空を仰いだ。そこには雲ひとつなく、満天の星々が瞬いている。
神のいる天など、もう信じていない。けれど、その星の中にヴァリーがいるような気がして、ほんの少しだけ目を細めた。
「だから……見ててくれ。俺はもう、“神に祈る人間”じゃない。あなたに誓って、生きる人間になる」
その言葉が夜に溶けた瞬間、遠くで風が草を撫でた。墓の上に置かれた花がそっと揺れ、淡い香りが闇の中に漂う。
ヴェゼルはひとつ息を吐き、静かに背を向けた。
その足音が、冷えた大地に静かに刻まれていく。
どこへ向かうのか、誰にもわからない。
けれど、その背に宿る決意だけが、確かに夜を裂いていた。




