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第242話 翌朝

オデッセイの言葉に逆らう者はいなかった。旅の疲れも、心の重みも、ただ湯気の中に沈めた。


大きくなったサクラは「ヴェゼルと寝る」と聞かず、結局、一緒の布団に入ることになった。


手がサクラの胸に触れる。その温もりは、どこかヴァリーの面影に似ていて、心が一瞬、静かになった。


「……おかえり」


夢うつつのように呟くサクラに、ヴェゼルは微笑みながら返す。


「ただいま」


そう言って、サクラに抱き寄せられた瞬間、全身の力が抜けて、深い眠りへと落ちていった。


――翌朝。


お腹の上に、ずしんと衝撃が走った。


「うぐっ……!」


寝ぼけ眼を開けると、そこには満面の笑みのアクティがいた。


「おにーさま!おかえり!――で! おもやげ…はっ?」


あまりに元気な声に、思わず笑ってしまう。だが、背負って帰ってきたのは荷物よりも重い記憶。


「……ごめん。今回は急いでて、持ってこれなかったんだ」


アクティがぷくっと頬を膨らませる。「もう!あれだけやくそくしたのに!」


その拗ねた声に、ヴェゼルの胸がちくりと痛む。少しの沈黙のあと、アクティがぽつりと聞いた。


「ねぇ、ヴァリーさんは? いっしょじゃないの?」


ヴェゼルの喉が固く閉ざされる。何も言えない。小さな妹の純粋な瞳が、ただ真っ直ぐに自分を見つめてくる。


「帰ってこない……もう、二度と帰ってこない」その言葉にアクティが首を傾げる。


「フラれたの?」


思わず息が詰まる。どう説明すればいいのか、言葉が出ない。


その時、部屋の扉が静かに開いた。母・オデッセイが入ってきて、アクティの前にしゃがみ込む。その目は優しく、けれどどこか哀しげだった。


「ヴァリーちゃんはね、みんなを守るために戦ったの……そして、天国に召されてしまったのよ」


その瞬間、アクティの表情が凍った。小さな肩が震え、唇がかすかに動く。


「もう……会えないの?」


ヴェゼルは声を震わせながら答える。


「……ああ。けど、今はこの中で眠っているよ」


そう言って、自分の収納箱をそっと撫でた。


「だから……あとで出して、みんなで最後のお別れをしよう」


その言葉を聞いた途端、アクティの目に涙があふれた。声を上げるまいと唇を噛みしめ、ただ、ぽろぽろと涙をこぼす。その姿が、ヴェゼルの胸を締めつけた。


「朝ごはんを食べたら……花をたくさん摘みに行きましょう」オデッセイが柔らかく言った。


「ヴァリーさんを花で囲んで、きれいに送ってあげましょう」


ヴェゼルは頷く。アクティも、涙の跡を指で拭いながら小さく頷いた。そして三人は、静かに食卓へ向かう支度を始めた。その朝の陽光はあたたかく、けれどどこか哀しみの色を帯びていた。



朝食の席は、いつもより静かだった。


皿の上でスープが揺れる音だけが響き、誰も口数を多くしなかった。それでも、温かい食卓だった。オデッセイが少しでも空気を和らげようと、穏やかに笑みを浮かべていた。


「食べたら、花を摘みに行きましょうね」


「……うん」


アクティの小さな声が返る。サクラもヴェゼルの胸元で静かに頷いた。


食後、領館の人々が自然と集まってきた。


フリード、オデッセイ、ヴェゼル、アクティ、執事のカムリ、アクティの侍女セリカ。


カムリの息子でヴェゼルの従者のトレノ。フリードの弟グロム。そして、領内の巡回を終えたコンテッサ。


皆、悲しみを分け合うように集い、黙って花籠を手に取った。ヴェゼルはサクラを胸ポケットに入れて、一緒に花畑へ向かう。朝露の光る草原は、まるで空の涙を宿しているようだった。


紫のラベンダー、黄色いポピー、野に咲く白い花々。風が通るたびに、花弁がそっと揺れ、まるで誰かの名を呼んでいるように思えた。


「ねぇ……ヴァリーさん、こういうはながすきだったよね」


アクティが指先で淡いピンクの花を摘みながら言う。


「そうだね。優しい色の花が好きだった」


ヴェゼルの声は静かで、どこか遠くを見つめていた。


「きっと喜ぶわ」オデッセイが微笑む。その笑顔の奥に深い哀しみが隠れていた。


しばらくして、みんなの籠が花でいっぱいになった。まるで、春そのものを抱えて帰るように、領館へと戻る。


――その頃、玄関先には棺が届いていた。


オデッセイの指示でガゼールが急遽、妻のパルサーに頼み、夜のうちに用意させたものだ。上質な白木で作られた棺は、無駄な装飾ひとつなく、清らかな美しさを放っていた。


ヴェゼルは静かに収納箱を開く。空気が一瞬、ひやりと変わる。


そこから、眠るような姿のヴァリーを取り出した。冷たく、それでいて穏やかな表情。まるで、まだ夢の中にいるようだった。


「……おかえり、ヴァリーさん」オデッセイの小さな呟きが空気に溶けた。


棺にヴァリーを横たえ、白い布をかける。その時、オデッセイが立ち上がった。


「ヴァリーさんをきれいにしてあげましょう。セリカ、手伝って」


女性たちは頷き、そっと部屋を出るように男性陣へ促した。ヴェゼルは一度、振り返った。棺の中のヴァリーの顔が、薄暗い光の中でかすかに輝いて見えた。


その瞬間、胸の奥がどうしようもなく締めつけられる。けれど、彼は静かに扉を閉めた。


――どれほどの時間が経っただろうか。


オデッセイの声が部屋の外に響いた。


「きれいになったわ。入ってきて」


扉を開けた瞬間、息を呑んだ。棺の中のヴァリーは、まるで永遠の花嫁のようだった。


淡い化粧を施され、純白のウェディングドレスに身を包み、静かに微笑んでいるように見える。


「それ……母さんの……」


「ええ。私の花嫁衣装よ」オデッセイは優しく微笑んだ。


「生前、ヴァリーさんと約束していたの。『結婚式のときは、オデッセイさんのドレスを借りたい』ってね」


その言葉に、ヴェゼルの喉が震えた。ゆっくりと棺に近づき、ヴァリーの冷たい手を取る。


「……約束、守ったんだね」声が途切れる。唇を寄せ、そっとキスを落とした。


「さっきみんなで摘んだ花で、飾ってあげましょう」オデッセイの声で、みんなが部屋に入ってくる。


籠から花を取り出し、棺の中にひとつひとつ、優しく置いていく。白、赤、黄色――花が重なり、やがて棺の中は小さな春園になった。


ただ、アクティだけが手を止めていた。


「どうしたの?」


オデッセイが尋ねる。アクティは俯いたまま、小さな声で言った。


「……花を飾ったら、ヴァリーさん、いなくなっちゃうんでしょ?」


その言葉に、部屋の空気が静まる。オデッセイは微笑んで頷いた。


「そうね。でもね、みんなでヴァリーさんを送ってあげるのよ」


アクティは少し迷ってから、掌に残していた一輪の花を見つめた。それは、この季節には珍しい、淡いピンクの小さな花だった。


そっとヴァリーの頬の横に置くと、そのままオデッセイの胸に飛び込み、声を押し殺して泣いた。誰も言葉を挟まず、ただ静かに涙を流した。


棺の中で眠るヴァリーの顔は、まるですべてを赦すように穏やかだった。






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